RelaxStoriesTV 心と体のリラックス図書館

YouTubeでは朗読動画、はてなブログでは小説、どちらから楽しみますか?物語の世界に浸れる2つの楽しみ方です。

【夜の短編小説:刺青。谷崎潤一郎:現代版】「刺青」は、1910年に発表された短編小説で、彼の処女作として知られています。

刺青:谷崎潤一郎 
現代語訳:Relax Stories TV

 

はじめに


谷崎潤一郎の「刺青」は、1910年に発表された短編小説で、彼の処女作として知られています。この作品は、美と欲望、そしてそれに伴う葛藤を描いた物語です。物語の中心には、腕利きの刺青師・清吉と、彼が理想とする美女が登場します。清吉は、自身の芸術的な欲望を満たすために、絶世の美女に刺青を彫ることを夢見ています。この物語を通じて、谷崎は人間の内面に潜む欲望や美の追求を鋭く描き出しています。

人生の教訓

美の追求とその代償
清吉の美に対する執着は、彼の人生を支配し、最終的には彼自身をも変えてしまいます。美を追求することの重要性と、その代償について考えさせられます。

欲望の力
清吉の欲望は、彼を突き動かし、彼の行動を決定づけます。欲望が人間の行動にどれほどの影響を与えるかを示しています。

変化と成長
物語の中で、娘は刺青を通じて自分自身を見つめ直し、変化していきます。人間は経験を通じて成長し、変わることができるという教訓です。

内面の力
外見だけでなく、内面の力や意志の強さが重要であることを示しています。娘が刺青を受け入れ、自分の内面の力を発揮する姿は、内面の強さの重要性を教えてくれます。

 

本編


それはまだ人々が「愚か」という貴い徳を持っていて、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。殿様や若旦那ののんびりとした顔が曇らないように、御殿女中や華魁の笑いの種が尽きないようにと、おしゃべりを売るお茶坊主幇間といった職業が、立派に存在できたほど、世間がのんびりしていた時期であった。女定九郎、女自雷也、女鳴神など、当時の芝居や草双紙では、美しい者が強者で、醜い者が弱者とされていた。誰も彼も挙げて美しくあろうと努めた結果、天稟の体に絵の具を注ぎ込むまでになった。芳烈な、あるいは絢爛な線と色が、その頃の人々の肌に躍動していた。

馬道を通る客は、見事な刺青のある駕籠舁を選んで乗った。吉原や辰巳の女も、美しい刺青の男に惚れた。博徒や鳶の者はもちろん、街の人々の中には稀に侍なども入墨をした。時々両国で催される刺青会では、参加者が肌を叩き合い、互いに奇抜な意匠を誇り合い、評価しあった。

清吉という若い刺青師には腕前があった。浅草のちゃり文、松島街の奴平、こんこん次郎などにも劣らぬ名手として持て囃され、何十人の人の肌は彼の絵筆の下で絖地となって広げられた。刺青会で高い評価を受けた刺青の多くは、彼の手によるものであった。達磨金はぼかし刺しが得意とされ、唐草権太は朱刺しの名手と讃えられ、清吉はまた奇警な構図と妖艶な線で名を知られていた。

もともと豊国国貞の風を慕って、浮世絵師として生計を立てていた清吉には、刺青師に堕落してからも画工らしい良心と鋭感が残っていた。彼の心を惹きつけるほどの皮膚と骨格を持つ人でなければ、彼の刺青を手に入れることはできなかった。たまに描いてもらえるとしても、一切の構図と費用は彼の望むままであり、その上、耐え難い針先の苦痛を、一か月も二か月もこらえなければならなかった。


この若い刺青師の心には、人知らぬ快楽と宿願が潜んでいた。彼が人々の肌に針を突き刺すとき、真紅に血を含んで膨れ上がる肉の疼きに耐えられず、大抵の男は苦しい呻き声を発したが、その呻き声が激しければ激しいほど、彼は不思議な愉快さを感じていた。刺青の中でも特に痛いとされる朱刺やぼかし刺を用いることを、彼は特に喜んだ。一日平均五六百本の針に刺されて、色上げを良くするために湯に浸かって出てくる人は、皆半死半生の体で清吉の足元に打ち倒れたままで、しばらくは身動きさえできなかった。その無残な姿をいつも清吉は冷やかに眺め、

「嘸さぞお痛みでしょうなあ」

と快そうに笑っている。

意気地のない男が、まるで知死期の苦しみのように口を歪め、歯を食いしばり、ひいひいと悲鳴をあげることがあると、彼は、

「お前さんも江戸っ児だ。辛抱しなさい。―――この清吉の針は飛び切りに痛いのだから」

こう言って、涙にうるんだ男の顔を横目で見つつ、かまわず刺し続けた。その後、我慢強い者がグッと胆を据えて、眉一つしかめず耐えていると、

「ふむ、お前さんは見かけによらない突っ張り者だ。―――だが見なさい、今にそろそろ疼き出して、どうにもこうにもたまらなくなるから」

と、白い歯を見せて笑った。

彼の長年の宿願は、光輝く美女の肌を得て、その肌に己の魂を刺し込むことだった。その女の素質や容貌についてはいろいろな注文があった。ただ美しい顔や美しい肌だけでは、彼は中々満足することができなかった。江戸中の色街で名を響かせた女を調べても、彼の気分にぴったり合う味わいや調子は、なかなか見つからなかった。まだ見ぬ人の姿かたちを心に描き、三年四年は空しく憧れながらも、彼はなおその願いを捨てずにいた。

丁度四年目の夏のある夜、深川の料理屋平清の前を通りかかったとき、彼はふと門口に待っている駕籠の簾の影から、真っ白な女の素足がこぼれているのに気がついた。鋭い彼の眼には、人間の足はその顔と同じように複雑な表情を持って映った。その女の足は、彼にとってまるで貴重な肉の宝玉のように思えた。親指から小指まで整った繊細な五本の指、薄紅色の貝にも劣らぬ爪の色合い、珠のような踵のまる味、清洌な岩間の水が絶えず足下を洗うかのように疑われる皮膚の潤沢。この足こそ、やがて男の生血で肥え太り、男の骸を踏みつける足である。この足を持つ女こそは、彼が永年たずねあぐんだ、女の中の女であろうと思われた。清吉は躍る胸を抑えて、その人の顔が見たくて駕籠の後を追ったが、二、三町行くと、その影はもう見えなくなっていた。

清吉の憧れが、激しい恋に変わってその年も暮れ、五年目の春も半ば老い込んだある日の朝であった。彼は深川佐賀街の寓居で、房楊枝をくわえながら、錆竹の濡れ縁にある萬年青の鉢を眺めていた。庭の裏木戸を訪ねる音がして、袖垣の影から、ついぞ見慣れぬ小娘が這入って来た。

それは清吉が馴染みの辰巳の芸妓から寄こされた使いの者であった。

「姐さんからこの羽織を親方へお手渡しして、何か裏地へ絵模様を描いてくださるようにお頼み申し上げて………」と、娘はウコンの風呂敷をほどいて、中から岩井杜若の似顔絵のたとうに包まれた女性用の羽織と、一通の手紙を取り出した。その手紙には、羽織のことをくれぐれも頼んだ末に、使いの娘は近々私の妹分として御座敷へ出るはず故、私のことも忘れずに、この娘を引き立ててやってくださいと書き添えられてあった。

「どうも見覚えのない顔だと思ったが、それじゃお前はこの頃こちらへ来たのか」

こう言って清吉は、じっくりと娘の姿を見守った。年頃は漸う十六か七かと思われたが、その娘の顔は、不思議にも長い月日を色里に暮らして、幾十人の男の魂を弄んだ年増のように非常に整っていた。それは国中の罪と財が流れ込む都で、何十年の昔から生き代わり死に代わった麗しい男女の夢から生まれた器量であった。

「お前は去年の六月ごろ、平清から駕籠で帰ったことがあろうがな」

こう訊ねながら、清吉は娘を縁へかけさせて、備後表の台に乗った繊細な素足を仔細に眺めた。

「ええ、あの時分なら、まだお父さんが生きていたから、平清へもたびたびまいりましたのさ」

と、娘は奇妙な質問に笑って答えた。

「丁度これで足かけ五年、俺はお前を待っていた。顔を見るのは初めてだが、お前の足には覚えがある。―――お前に見せてやりたいものがあるから、上ってゆっくり遊んで行くといい」

それは古代の暴君、紂王の寵妃、末喜を描いた絵であった。瑠璃珊瑚を鏤ちりばめた金冠の重さに堪えられぬなよやかな体を、ぐったり勾欄に靠れかかって、羅綾の裳裾を階の中段にひるがえし、右手に大杯を傾けながら、今しも庭前に刑せられんとする犠牲の男を眺めている妃の風情と言い、鉄の鎖で四肢を銅柱へ縛り付けられ、最後の運命を待ち構えつつ、妃の前に頭をうなだれ、眼を閉じた男の顔色と言い、物凄いまでに巧みに描かれていた。

娘は暫くこの奇怪な絵の面を見入っていたが、知らず知らずその瞳は輝き、その唇は震えた。怪しくもその顔はだんだんと妃の顔に似通ってきた。娘はそこで隠れたる真の「己」を見出した。

「この絵にはお前の心が映っているぞ」

こう言って、清吉は快く笑いながら、娘の顔を覗き込んだ。

「どうしてこんな恐ろしいものを、私にお見せになるのですか?」

と、娘は青ざめた額を擡げて言った。

「この絵の女はお前だ。この女の血が、お前の体に流れているはずだ」

と、彼はさらに他の一本の画幅を広げた。それは「肥料」という画題であった。画面の中央に、若い女が桜の幹に身を寄せ、足下に累々と倒れている多くの男たちの屍骸を見つめている。女の周りを舞い飛び、凱歌を歌う小鳥たち、女の瞳に溢れる抑え難き誇りと歓びの色。それは戦の跡の景色なのか、それとも花園の春の風景なのか。それを見せられた娘は、われとわが心の底に潜んでいた何物かを探りあてたような心地であった。

「これはお前の未来を絵に現わしたのだ。ここに倒れている人たちは、皆これからお前のために命を捨てるのだ」

こう言って、清吉は娘の顔と寸分違わぬ画面の女を指さした。

「後生だから、早くその絵をしまってください」

と、娘は誘惑を避けるかのように画面に背を向け、畳の上へ突っ伏したが、やがて再び唇を震わせた。

「親方、白状します。私はお前さんのお察し通り、その絵の女のような性分を持っていますのさ。―――だからもう堪忍して、それを引っ込めておくんなさい」

「そんな卑怯なことを言わずに、もっとよくこの絵を見るがいい。それを恐ろしがるのも、まあ今のうちだろうよ」

こう言った清吉の顔には、いつもの意地悪い笑いが漂っていた。

しかし、娘の頭は容易に上がらなかった。襦袢の袖で顔を覆い、いつまでも突っ伏したまま、

「親方、どうか私を帰しておくれ。お前さんの側にいるのは恐ろしいから」

と、幾度か繰り返した。

「まあ待ちなさい。俺がお前を立派な器量の女にしてやるから」

と言いながら、清吉は何気なく娘の側に近寄った。彼の懐には、かつて和蘭医からもらった麻酔剤の瓶が隠されていた。

日はうららかに川面を射て、八畳の座敷は燃えるように照らされた。水面から反射する光線が、無心に眠る娘の顔や、障子の紙に金色の波紋を描いてふるえていた。部屋のしきりを閉め切って刺青の道具を手にした清吉は、しばらくはただ恍惚として座っているばかりであった。彼は今、初めて女の妙相をじっくりと味わうことができた。その動かぬ顔に向かい合い、十年百年この一室に静坐しても、なお飽きることはないだろうと思われた。古代エジプトの人々が、荘厳な大地をピラミッドとスフィンクスで飾ったように、清吉は清浄な人間の皮膚を、自分の恋で彩ろうとするのであった。

やがて彼は左手の小指と無名指、そして拇指の間に挿した絵筆の穂を、娘の背に寝かせ、その上から右手で針を刺していった。若い刺青師の心は墨汁の中に溶けて、皮膚に滲んだ。焼酎に交ぜて刺り込む琉球朱の一滴一滴は、彼の命のしずくであった。彼はそこで我が魂の色を見た。

いつしか昼も過ぎて、のどかな春の日はやがて暮れかかったが、清吉の手は少しも休まず、女の眠りも破れなかった。娘の帰りの遅きを案じて迎えに出た箱屋までが、

「あの娘はもうとっくに帰って行きましたよ」

と云われて追い返された。月が対岸の土州屋敷の上にかかり、夢のような光が沿岸一帯の家々の座敷に流れ込む頃には、刺青はまだ半分も出来上がらず、清吉は一心に蝋燭の心を掻き立てていた。

一点の色を注ぎ込むのも、彼にとっては容易な業わざでなかった。刺す針、抜く針の度ごとに深い吐息をついて、自分の心が刺されるように感じた。針の痕は次第に巨大な女郎蜘蛛の形象を具え始めて、再び夜がしらしらと白み初めた時分には、この不思議な魔性の動物は、八本の肢を伸ばしつつ、背一面に蟠わだかまった。

春の夜は、上り下りの河船の櫓声に明け放れて、朝風を孕んで下る白帆の頂から薄らぎ初める霞の中に、中洲、箱崎霊岸島の家々の甍がきらめく頃、清吉は漸く絵筆を擱おいて、娘の背に刺り込まれた蜘蛛のかたちを眺めていた。その刺青こそが彼の生命のすべてであった。その仕事をなし終えた後の彼の心は空虚であった。


二つの人影はそのまま暫く動かなかった。そうして、低く、かすれた声が部屋の四壁に震えて聞こえた。

「私はお前を本当の美しい女にするために、刺青の中に自分の魂を込めたのだ。もう今からは日本国中に、お前に優る女は居ない。お前はもう今までのような臆病な心は持っていないのだ。男という男は、皆なお前の肥料になるのだ。………」

その言葉が通じたか、かすかに糸のような呻き声が女の唇にのぼった。娘は次第に知覚を回復してきた。重く引き入れては重く引き出す息に、蜘蛛の肢は生けるが如く蠕動した。

「苦しかろう。体を蜘蛛が抱きしめているのだから。」

こう言われて、娘は細く無意味な目を開いた。その瞳は夕月の光を増すように、だんだんと輝いて男の顔に照った。

「親方、早く背中の刺青を見せてください。お前さんの命をもらった代わりに、私はきっと美しくなったでしょうね。」

娘の言葉は夢のようであったが、しかしその調子にはどこか鋭い力がこもっていた。

「まあ、これから湯殿へ行って色上げをするのだ。苦しかろうが、ちょっと我慢しな。」

と、清吉は耳元へ口を寄せて、労わるように囁いた。

「美しくなれるのなら、どんなことでも辛抱しますよ。」

と、娘は身内の痛みを抑えて、強いて微笑んだ。

「ああ、湯が滲みて苦しいこと。………親方、後生だから私を捨てて、二階へ行って待っていておくれ。私はこんなみじめな姿を男に見られるのが口惜しくてたまらないから。」

娘は湯上りの体を拭いもせず、いたわる清吉の手をつきのけて、激しい苦痛に流しの板の間へ身を投げたまま、魘うなされるように呻いた。気狂じみた髪が悩ましげにその頬へ乱れた。女の背後には鏡台が立てかけてあった。真っ白な足の裏が二つ、その面に映っていた。

昨日とは打って変わった女の態度に、清吉は一方ならず驚いたが、言われるままに独り二階に待っていると、凡そ半時ばかり経った頃、女は洗い髪を両肩へすべらせ、身じまいを整えて上って来た。そうして苦痛の影も止まらぬ晴れやかな眉を張って、欄干に靠れながらおぼろにかすむ大空を仰いだ。

「この絵は刺青と一緒にお前にやるから、それを持ってもう帰るがいい。」

こう言って清吉は巻物を女の前に置いた。

「親方、私はもう今までのような臆病な心を、さらりと捨ててしまいました。―――お前さんは真先に私の肥料になったんだねえ。」

と、女は剣のような瞳を輝かせた。その耳には凱歌の声が響いていた。

「帰る前にもう一遍、その刺青を見せてくれ。」

清吉はこう言った。女は黙って頷き、肌を脱いだ。折から朝日が刺青の面に射して、女の背中は燦爛とした。