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【夜の短編小説:狐。新美南吉:現代版】祭りの夜に下駄を買った文六ちゃんが、狐憑きの迷信におびえる物語です。

狐:新美南吉
現代語訳:Relax Stories TV

 

はじめに


新美南吉の小説『狐』は、祭りの夜に下駄を買った文六ちゃんが、狐憑きの迷信におびえる物語です。文六ちゃんとその母親の愛と信頼を描いた感動的な作品であり、南吉の三大狐話の一つとして知られています。この物語は、子供たちの純粋な心と母親の無償の愛を通じて、人間の孤独や恐怖、そして愛の力を深く考えさせられる内容となっています。

人生の教訓

愛と信頼の力
文六ちゃんと母親の関係は、無償の愛と深い信頼に基づいています。母親の愛は、どんな困難な状況でも子供を守り抜く強さを持っています。

迷信や恐怖に対する冷静な対応
物語では、狐憑きの迷信におびえる文六ちゃんが描かれていますが、母親は冷静に対処し、子供を安心させる方法を見つけます。恐怖や迷信に対して冷静に対応することの重要性を教えてくれます。

孤独と人間関係の大切さ
文六ちゃんが狐憑きの迷信におびえる中で、友達や周囲の人々との関係が変わっていく様子が描かれています。孤独を感じることの辛さと、人間関係の大切さを学ぶことができます。

母の愛の深さ
母親が文六ちゃんに対して示す愛情は、自己犠牲をも厭わない深いものであり、母の愛の偉大さを感じさせます。この愛情は、子供にとって大きな安心感と支えとなります。
この物語を通じて、私たちは愛と信頼の力、恐怖に対する冷静な対応、人間関係の大切さ、そして母の愛の深さを学ぶことができます。

 

本編

 


月夜に七人の子供が歩いていました。大きい子供も小さい子供も混ざっていました。月は上から照らしていました。子供たちの影は短く地面に映りました。子供たちは自分の影を見て、ずいぶん大きな頭で、足が短いなあと思いました。そこで、おかしくなって、笑い出す子もありました。あまり格好がよくないので、二、三歩走って見る子もありました。こんな月夜には、子供たちは何か夢のようなことを考えがちでした。子供たちは小さい村から、半里ばかり離れた本郷へ、夜のお祭を見に行くところでした。切通しを登ると、静かな春の夜風に乗って、ひゅうひゃらりゃりゃと笛の音が聞こえてきました。子供たちの足は自然にはやくなりました。すると一人の子供が遅れてしまいました。

「文六ちゃん、早く来い」とほかの子供が呼びました。文六ちゃんは月の光でも、やせっぽちで、色の白い、眼玉の大きい子供です。できるだけ急いでみんなに追いつこうとしました。

「でも俺、お母ちゃんの下駄を履いているもん」と、とうとう鼻を鳴らしました。なるほど細長い足の先には大きな、大人の下駄が履かれていました。

本郷に入るとまもなく、道端に下駄屋さんがあります。子供たちはその店に入っていきました。文六ちゃんの下駄を買うのです。文六ちゃんのお母さんに頼まれたのです。

「あのの、小母さん」と、義則君が口をとがらして下駄屋の小母さんに言いました。「こいつは樽屋の清さの子供だけど、下駄を一足やっとくれや。あとから、お母さんが銭を持ってくるって。」

みんなは、樽屋の清さの子供がよく見えるように前へ押し出しました。それは文六ちゃんでした。文六ちゃんは二つばかりまばたきして突っ立っていました。小母さんは笑い出して、下駄を棚から下ろしてくれました。

どの下駄が足によく合うかは、足に当てて見なければわかりません。義則君が、お父さんのように、文六ちゃんの足に下駄を当てがってくれました。何しろ文六ちゃんは、一人きりの子供で、甘えん坊でした。

ちょうど文六ちゃんが新しい下駄を履いたときに、腰の曲がったお婆さんが下駄屋さんに入って来ました。そしてお婆さんはふとこんなことを言いました。「やれやれ、どこの子だか知らんが、晩に新しい下駄を履くと狐がつくと言うだに。」

子供たちはびっくりしてお婆さんの顔を見ました。

「嘘だい、そんなこと」とやがて義則君が言いました。「迷信だ」とほかの一人が言いました。それでも子供たちの顔には何か心配な色が漂っていました。

「よし、そいじゃ、小母さんがまじないしてやろう」と、下駄屋の小母さんが口軽く言いました。小母さんは、マッチを一本する真似をして、文六ちゃんの新しい下駄の裏に、ちょっと触りました。「さあ、これでよし。これでもう、狐も狸もつかない。」

そこで子供たちは下駄屋さんを出ました。

子供たちは綿菓子を食べながら、稚児さんが二つの扇を眼にも留まらぬ速さで回しながら、舞台の上で舞うのを見ていました。その稚児さんは、お白粉を塗り固めて顔を彩っていますが、よく見ると、お多福湯のトネ子でありましたので、「あれ、トネ子だよ、ふふ」とささやきあったりしました。

稚児さんを見ているのに飽くと、暗いところに行って、鼠花火を弾かせたり、かんしゃく玉を石垣にぶつけたりしました。舞台を照らす明るい電灯には、虫がいっぱい来て、その周りを巡っていました。見ると、舞台の正面のひさしのすぐ下に、大きな赤土色の蛾がぴったり張り付いていました。

山車の鼻先の狭いところで、人形の三番叟が踊り始める頃は、少しお宮の境内の人も少なくなったようでした。花火や、ゴム風船の音も減ったようでした。子供たちは山車の鼻の下に並び、仰向いて人形の顔を見上げていました。

人形は大人とも子供ともつかぬ顔をしています。その黒い眼は生きているとしか思えません。時々、またたきするのは、人形を操る人が後ろで糸を引くのです。子供たちはそんなことはよく知っています。しかし、人形がまたたきすると、子供たちは何だかもの悲しいような、不気味なような気がします。

すると突然、パクッと人形が口を開き、ペロッと舌を出し、あっという間に元のように口を閉じてしまいました。真っ赤な口の中でした。これも、後ろで糸を引く人がやったことです。子供たちはよく知っています。昼間なら、子供たちは面白がってゲラゲラ笑うのです。

けれど子供たちは、いまは笑いませんでした。提灯の光の中で、――影の多い光の中で、まるで生きている人間のように、まばたきしたり、ペロッと舌を出したりする人形……何という不気味なものでしょう。――子供たちは思い出しました、文六ちゃんの新しい下駄のことを。晩に新しい下駄を履くものは狐につかれるといったあの婆さんのことを。子供たちは、自分たちが長く遊びすぎたことに気がつきました。自分たちにはこれから帰ってゆかねばならない、半里の野中の道があったことにも気がつきました。

帰りも月夜でした。しかし、帰りの月夜は、なんとなくつまらないものです。子供たちは静かに――まるで一人一人が自分の心の中を覗いているかのように、黙って歩いていました。切通し坂の上に来たとき、一人の子が、もう一人の子の耳に口を寄せて何かささやきました。するとささやかれた子は別の子のそばに行って何かささやきました。その子はまた別の子にささやきました。――こうして、文六ちゃんのほか、子供たちは何か一つのことを、耳から耳へ言い伝えました。それはこういうことだったのです。「下駄屋さんの小母さんは文六ちゃんの下駄に、ほんとうにマッチをすっておまじないをしていた。まねごとをしただけだった。」

それから子供たちはまたひっそりして歩いてゆきました。ひっそりしているとき、子供たちは考えておりました。――狐につかれるというのは、どんなことなのだろう。文六ちゃんの中に狐が入ることだろうか。文六ちゃんの姿や形はそのままでいて、心は狐になってしまうことだろうか。そうすると、いまもう、文六ちゃんは狐につかれているかもしれないわけだ。文六ちゃんは黙っているからわからないが、心の中はもう狐になってしまっているかもしれないわけだ。

同じ月夜で、同じ野中の道では、誰でも同じようなことを考えるものです。そこでみんなの足は自然にはやくなりました。低い桃の木に囲まれた池のそばへ道が来たときでした。子供たちの中で誰かが、「コン」と小さい咳をしました。ひっそりして歩いているときなので、みんなは、その小さい音でさえ、聞き落とすわけにはいきませんでした。

そこで子供たちは、今の咳は誰がしたのか、こっそり調べました。すると――文六ちゃんがしたということがわかりました。文六ちゃんがコンと咳をした!それなら、この咳には特別な意味があるのではないかと子供たちは考えました。よく考えてみるとそれは咳ではなかったようでした。狐の鳴声のようでした。「コン」とまた文六ちゃんが言いました。文六ちゃんは狐になってしまったと子供たちは思いました。私たちの中には狐が一匹入っていると、みんなは恐ろしく思いました。


樽屋の文六ちゃんの家は、みんなの家とは少し離れたところにありました。広い蜜柑畑になっている屋敷に囲まれ、一軒だけ、谷地にぽつんと立っていました。子供たちはいつも、水車のところから少し回り道をして、文六ちゃんをその家の門口まで送っていました。なぜなら、文六ちゃんは樽屋の清六さんの一人きりの大事な坊ちゃんで、甘えん坊だからです。文六ちゃんのお母さんが、よく蜜柑やお菓子をみんなにくれるので、文六ちゃんと遊んでやってくれと頼みに来るからです。今晩も、お祭に行くときには、その門口まで文六ちゃんを迎えに行ってあげたのでした。

さてみんなは、とうとう水車のところに来ました。水車の横から細い道が分かれて草の中を下へ降りてゆきます。それが文六ちゃんの家にゆく道です。

ところが、今夜は誰も文六ちゃんのことを忘れてしまったかのように、送ってゆこうとする者がありません。忘れたどころではありません、文六ちゃんが怖いのです。

甘えん坊の文六ちゃんは、それでも、いつも親切な義則君だけは、こちらへ来てくれるだろうと思って、後ろを振り返り、水車の影に隠れていきました。

とうとう、誰も文六ちゃんと一緒に行きませんでした。

さて文六ちゃんは、ひとりで、月に明るい谷地へ降りてゆく細道を下り始めました。どこかで蛙がくくみ声で鳴いていました。

文六ちゃんは、ここから自分の家まではもうじきだから、誰も送ってくれなくても困ることはありません。だが、いつもは送ってくれたのです。今夜に限って送ってくれないのです。

文六ちゃんは、ぼんやりしているようでも、すでにちゃんと知っているのです。みんなが、自分の下駄のことで何と言い交わしたか、また、自分が咳をしたためにどういうことになったかを。

祭に行くまでは、あんなに自分に親切にしてくれたみんなが、自分が夜に新しい下駄を履いて狐に取りつかれたかもしれないために、もう誰一人返り見てくれない。それが文六ちゃんには情けないのでした。

義則君なんか文六ちゃんより四年級も上だけれど親切な子で、いつもなら、文六ちゃんが寒そうにしていると、洋服の上に着ている羽織を脱いで貸してくれたものでした(田舎の少年は寒い時、洋服の上に羽織を着ています)。それなのに、今夜は文六ちゃんがいくら咳をしていても羽織を貸してくれませんでした。

文六ちゃんの屋敷の外囲いになっている槙の生垣のところに来ました。背戸口の方の小さい木戸を開けて中に入るとき、文六ちゃんは自分の小さい影法師を見て、ふと、ある心配を感じました。

――ひょっとすると、自分は本当に狐につかれているかもしれない、ということでした。そうすると、お父さんやお母さんは自分をどうするだろうということでした。

お父さんが樽屋さんの組合へ行って、今晩はまだ帰らないので、文六ちゃんとお母さんは先に寝ることになりました。文六ちゃんは初等科三年生なのにまだお母さんと一緒に寝るのです。ひとり子ですからしかたないのです。

「さあ、お祭の話を、母ちゃんに聞かせておくれ」とお母さんは、文六ちゃんの寝巻きの襟を合わせてやりながら言いました。

文六ちゃんは、学校から帰れば学校のことを、町に行けば町のことを、映画を見てくれば映画のことをお母さんに聞かれるのです。文六ちゃんは話が下手ですから、ちぎれちぎれに話をします。それでもお母さんは、とても面白がって、喜んで文六ちゃんの話を聞いてくれるのでした。

「神子さんね、あれよく見たら、お多福湯のトネ子だったよ」と文六ちゃんは話しました。

お母さんは、「そうかい」と言って、面白そうに笑って、「それから、もう誰が出たかわからなかったかい」と聞きました。

文六ちゃんは思い出そうと、目を大きく見開いてじっとしていましたが、やがて祭の話をやめて、こんなことを言い出しました。

「母ちゃん、夜に新しい下駄を履くと、狐につかれるの?」

お母さんは、文六ちゃんが何を言い出したのかと思い、しばらくあっけにとられて文六ちゃんの顔を見つめていましたが、今晩、文六ちゃんの身の上におおよそどんなことが起こったか、見当がつきました。

「誰がそんなことを言ったの?」

文六ちゃんはむきになって、自分の先の問いを繰り返しました。

「ほんとう?」

「嘘だよ、そんなこと。昔の人がそんなことを言っただけだよ。」

「嘘だね?」

「嘘だとも。」

「きっとだね。」

「きっと。」

しばらく文六ちゃんは黙っていました。黙っている間に、大きい眼玉が二度ぐるりぐるりと回りました。それから言いました。

「もし、ほんとうだったらどうする?」

「どうするって、何を?」とお母さんが聞き返しました。

「もし、僕がほんとうに狐になっちゃったらどうする?」

お母さんは、心からおかしいように笑い始めました。

「ね、ね、ね」と文六ちゃんは、ちょっと照れくさいような顔をして、お母さんの胸を両手でぐんぐん押しました。

「そうだね」と、お母さんはちょっと考えてから言いました。「そしたら、もう家に置いておくわけにはいかないね。」

文六ちゃんはそれを聞くと、寂しげな顔をしました。

「そしたら、どこへ行くの?」

「鴉根山から鴉根の方に行けば、今でも狐がいるそうだから、そっちへ行くんだ。」

「母ちゃんと父ちゃんはどうする?」

するとお母さんは、大人が子供をからかうときにするように、たいへんまじめな顔で、しかつべらしく言いました。

「父ちゃんと母ちゃんは相談をしてね、かわいい文六が狐になってしまったから、私たちもこの世に何の楽しみもなくなってしまったので、人間をやめて狐になることに決めますよ。」

「父ちゃんも母ちゃんも狐になる?」

「そう、二人で、明日の晩に下駄屋さんから新しい下駄を買ってきて、一緒に狐になるんだ。そうして、文六ちゃんの狐を連れて鴉根の方へ行きましょう。」

文六ちゃんは大きい目を輝かせて言いました。

「鴉根って、西の方?」

「成岩の南西の方の山だよ。」

「深い山?」

「松の木が生えているところだよ。」

「猟師はいない?」

「猟師って、鉄砲を撃つ人のことかい?山の中だからいるかもしれないね。」

「猟師が撃ちに来たら、母ちゃんどうしよう?」

「深い洞穴の中に入って三人で小さくなっていれば見つからないよ。」

「でも、雪が降ると餌がなくなるでしょう。餌を拾いに出たとき、猟師の犬に見つかったらどうしよう。」

「そしたら、一生懸命走って逃げましょう。」

「でも、父ちゃんや母ちゃんは速いでいいけど、僕は子供の狐だもん、遅れてしまうもん。」

「父ちゃんと母ちゃんが両方から手を引っ張ってあげるよ。」

「そんなことをしているうちに、犬がすぐ後ろに来たら?」

お母さんはちょっと黙っていました。それから、ゆっくり言いました。もう心からまじめな声でした。

「そしたら、母ちゃんは、びっこをひいてゆっくり行きましょう。」

「どうして?」

「犬は母ちゃんに噛みつくでしょう。そのうちに猟師が来て、母ちゃんを縛っていくでしょう。その間に、坊やとお父ちゃんは逃げてしまうのだよ。」

文六ちゃんはびっくりしてお母さんの顔をまじまじと見ました。

「いやだよ、母ちゃん、そんなこと。そいじゃ、母ちゃんがいなくなってしまうじゃないか。」

「でも、そうするより仕方がないよ。母ちゃんはびっこを引き引きゆっくり行くよ。」

「いやだったら、母ちゃん。母ちゃんがなくなるじゃないか。」

「でも、そうするより仕方がないよ。母ちゃんは、びっこを引き引きゆっくり……」

「いやだったら、いやだったら、いやだったら!」

文六ちゃんはわめきたてながら、お母さんの胸にしがみつきました。涙がどっと流れて来ました。

お母さんも、寝巻きの袖でこっそり目のふちを拭きました。そして文六ちゃんが跳ね飛ばした小さい枕を拾って、頭の下に当てがってやりました。

 

 

 

【夜の短編小説:狐。新美南吉:現代版】祭りの夜に下駄を買った文六ちゃんが、狐憑きの迷信におびえる物語です。

狐:新美南吉
現代語訳:Relax Stories TV

 

はじめに


新美南吉の小説『狐』は、祭りの夜に下駄を買った文六ちゃんが、狐憑きの迷信におびえる物語です。文六ちゃんとその母親の愛と信頼を描いた感動的な作品であり、南吉の三大狐話の一つとして知られています。この物語は、子供たちの純粋な心と母親の無償の愛を通じて、人間の孤独や恐怖、そして愛の力を深く考えさせられる内容となっています。

人生の教訓

愛と信頼の力
文六ちゃんと母親の関係は、無償の愛と深い信頼に基づいています。母親の愛は、どんな困難な状況でも子供を守り抜く強さを持っています。

迷信や恐怖に対する冷静な対応
物語では、狐憑きの迷信におびえる文六ちゃんが描かれていますが、母親は冷静に対処し、子供を安心させる方法を見つけます。恐怖や迷信に対して冷静に対応することの重要性を教えてくれます。

孤独と人間関係の大切さ
文六ちゃんが狐憑きの迷信におびえる中で、友達や周囲の人々との関係が変わっていく様子が描かれています。孤独を感じることの辛さと、人間関係の大切さを学ぶことができます。

母の愛の深さ
母親が文六ちゃんに対して示す愛情は、自己犠牲をも厭わない深いものであり、母の愛の偉大さを感じさせます。この愛情は、子供にとって大きな安心感と支えとなります。
この物語を通じて、私たちは愛と信頼の力、恐怖に対する冷静な対応、人間関係の大切さ、そして母の愛の深さを学ぶことができます。

 

本編

 


月夜に七人の子供が歩いていました。大きい子供も小さい子供も混ざっていました。月は上から照らしていました。子供たちの影は短く地面に映りました。子供たちは自分の影を見て、ずいぶん大きな頭で、足が短いなあと思いました。そこで、おかしくなって、笑い出す子もありました。あまり格好がよくないので、二、三歩走って見る子もありました。こんな月夜には、子供たちは何か夢のようなことを考えがちでした。子供たちは小さい村から、半里ばかり離れた本郷へ、夜のお祭を見に行くところでした。切通しを登ると、静かな春の夜風に乗って、ひゅうひゃらりゃりゃと笛の音が聞こえてきました。子供たちの足は自然にはやくなりました。すると一人の子供が遅れてしまいました。

「文六ちゃん、早く来い」とほかの子供が呼びました。文六ちゃんは月の光でも、やせっぽちで、色の白い、眼玉の大きい子供です。できるだけ急いでみんなに追いつこうとしました。

「でも俺、お母ちゃんの下駄を履いているもん」と、とうとう鼻を鳴らしました。なるほど細長い足の先には大きな、大人の下駄が履かれていました。

本郷に入るとまもなく、道端に下駄屋さんがあります。子供たちはその店に入っていきました。文六ちゃんの下駄を買うのです。文六ちゃんのお母さんに頼まれたのです。

「あのの、小母さん」と、義則君が口をとがらして下駄屋の小母さんに言いました。「こいつは樽屋の清さの子供だけど、下駄を一足やっとくれや。あとから、お母さんが銭を持ってくるって。」

みんなは、樽屋の清さの子供がよく見えるように前へ押し出しました。それは文六ちゃんでした。文六ちゃんは二つばかりまばたきして突っ立っていました。小母さんは笑い出して、下駄を棚から下ろしてくれました。

どの下駄が足によく合うかは、足に当てて見なければわかりません。義則君が、お父さんのように、文六ちゃんの足に下駄を当てがってくれました。何しろ文六ちゃんは、一人きりの子供で、甘えん坊でした。

ちょうど文六ちゃんが新しい下駄を履いたときに、腰の曲がったお婆さんが下駄屋さんに入って来ました。そしてお婆さんはふとこんなことを言いました。「やれやれ、どこの子だか知らんが、晩に新しい下駄を履くと狐がつくと言うだに。」

子供たちはびっくりしてお婆さんの顔を見ました。

「嘘だい、そんなこと」とやがて義則君が言いました。「迷信だ」とほかの一人が言いました。それでも子供たちの顔には何か心配な色が漂っていました。

「よし、そいじゃ、小母さんがまじないしてやろう」と、下駄屋の小母さんが口軽く言いました。小母さんは、マッチを一本する真似をして、文六ちゃんの新しい下駄の裏に、ちょっと触りました。「さあ、これでよし。これでもう、狐も狸もつかない。」

そこで子供たちは下駄屋さんを出ました。

子供たちは綿菓子を食べながら、稚児さんが二つの扇を眼にも留まらぬ速さで回しながら、舞台の上で舞うのを見ていました。その稚児さんは、お白粉を塗り固めて顔を彩っていますが、よく見ると、お多福湯のトネ子でありましたので、「あれ、トネ子だよ、ふふ」とささやきあったりしました。

稚児さんを見ているのに飽くと、暗いところに行って、鼠花火を弾かせたり、かんしゃく玉を石垣にぶつけたりしました。舞台を照らす明るい電灯には、虫がいっぱい来て、その周りを巡っていました。見ると、舞台の正面のひさしのすぐ下に、大きな赤土色の蛾がぴったり張り付いていました。

山車の鼻先の狭いところで、人形の三番叟が踊り始める頃は、少しお宮の境内の人も少なくなったようでした。花火や、ゴム風船の音も減ったようでした。子供たちは山車の鼻の下に並び、仰向いて人形の顔を見上げていました。

人形は大人とも子供ともつかぬ顔をしています。その黒い眼は生きているとしか思えません。時々、またたきするのは、人形を操る人が後ろで糸を引くのです。子供たちはそんなことはよく知っています。しかし、人形がまたたきすると、子供たちは何だかもの悲しいような、不気味なような気がします。

すると突然、パクッと人形が口を開き、ペロッと舌を出し、あっという間に元のように口を閉じてしまいました。真っ赤な口の中でした。これも、後ろで糸を引く人がやったことです。子供たちはよく知っています。昼間なら、子供たちは面白がってゲラゲラ笑うのです。

けれど子供たちは、いまは笑いませんでした。提灯の光の中で、――影の多い光の中で、まるで生きている人間のように、まばたきしたり、ペロッと舌を出したりする人形……何という不気味なものでしょう。――子供たちは思い出しました、文六ちゃんの新しい下駄のことを。晩に新しい下駄を履くものは狐につかれるといったあの婆さんのことを。子供たちは、自分たちが長く遊びすぎたことに気がつきました。自分たちにはこれから帰ってゆかねばならない、半里の野中の道があったことにも気がつきました。

帰りも月夜でした。しかし、帰りの月夜は、なんとなくつまらないものです。子供たちは静かに――まるで一人一人が自分の心の中を覗いているかのように、黙って歩いていました。切通し坂の上に来たとき、一人の子が、もう一人の子の耳に口を寄せて何かささやきました。するとささやかれた子は別の子のそばに行って何かささやきました。その子はまた別の子にささやきました。――こうして、文六ちゃんのほか、子供たちは何か一つのことを、耳から耳へ言い伝えました。それはこういうことだったのです。「下駄屋さんの小母さんは文六ちゃんの下駄に、ほんとうにマッチをすっておまじないをしていた。まねごとをしただけだった。」

それから子供たちはまたひっそりして歩いてゆきました。ひっそりしているとき、子供たちは考えておりました。――狐につかれるというのは、どんなことなのだろう。文六ちゃんの中に狐が入ることだろうか。文六ちゃんの姿や形はそのままでいて、心は狐になってしまうことだろうか。そうすると、いまもう、文六ちゃんは狐につかれているかもしれないわけだ。文六ちゃんは黙っているからわからないが、心の中はもう狐になってしまっているかもしれないわけだ。

同じ月夜で、同じ野中の道では、誰でも同じようなことを考えるものです。そこでみんなの足は自然にはやくなりました。低い桃の木に囲まれた池のそばへ道が来たときでした。子供たちの中で誰かが、「コン」と小さい咳をしました。ひっそりして歩いているときなので、みんなは、その小さい音でさえ、聞き落とすわけにはいきませんでした。

そこで子供たちは、今の咳は誰がしたのか、こっそり調べました。すると――文六ちゃんがしたということがわかりました。文六ちゃんがコンと咳をした!それなら、この咳には特別な意味があるのではないかと子供たちは考えました。よく考えてみるとそれは咳ではなかったようでした。狐の鳴声のようでした。「コン」とまた文六ちゃんが言いました。文六ちゃんは狐になってしまったと子供たちは思いました。私たちの中には狐が一匹入っていると、みんなは恐ろしく思いました。


樽屋の文六ちゃんの家は、みんなの家とは少し離れたところにありました。広い蜜柑畑になっている屋敷に囲まれ、一軒だけ、谷地にぽつんと立っていました。子供たちはいつも、水車のところから少し回り道をして、文六ちゃんをその家の門口まで送っていました。なぜなら、文六ちゃんは樽屋の清六さんの一人きりの大事な坊ちゃんで、甘えん坊だからです。文六ちゃんのお母さんが、よく蜜柑やお菓子をみんなにくれるので、文六ちゃんと遊んでやってくれと頼みに来るからです。今晩も、お祭に行くときには、その門口まで文六ちゃんを迎えに行ってあげたのでした。

さてみんなは、とうとう水車のところに来ました。水車の横から細い道が分かれて草の中を下へ降りてゆきます。それが文六ちゃんの家にゆく道です。

ところが、今夜は誰も文六ちゃんのことを忘れてしまったかのように、送ってゆこうとする者がありません。忘れたどころではありません、文六ちゃんが怖いのです。

甘えん坊の文六ちゃんは、それでも、いつも親切な義則君だけは、こちらへ来てくれるだろうと思って、後ろを振り返り、水車の影に隠れていきました。

とうとう、誰も文六ちゃんと一緒に行きませんでした。

さて文六ちゃんは、ひとりで、月に明るい谷地へ降りてゆく細道を下り始めました。どこかで蛙がくくみ声で鳴いていました。

文六ちゃんは、ここから自分の家まではもうじきだから、誰も送ってくれなくても困ることはありません。だが、いつもは送ってくれたのです。今夜に限って送ってくれないのです。

文六ちゃんは、ぼんやりしているようでも、すでにちゃんと知っているのです。みんなが、自分の下駄のことで何と言い交わしたか、また、自分が咳をしたためにどういうことになったかを。

祭に行くまでは、あんなに自分に親切にしてくれたみんなが、自分が夜に新しい下駄を履いて狐に取りつかれたかもしれないために、もう誰一人返り見てくれない。それが文六ちゃんには情けないのでした。

義則君なんか文六ちゃんより四年級も上だけれど親切な子で、いつもなら、文六ちゃんが寒そうにしていると、洋服の上に着ている羽織を脱いで貸してくれたものでした(田舎の少年は寒い時、洋服の上に羽織を着ています)。それなのに、今夜は文六ちゃんがいくら咳をしていても羽織を貸してくれませんでした。

文六ちゃんの屋敷の外囲いになっている槙の生垣のところに来ました。背戸口の方の小さい木戸を開けて中に入るとき、文六ちゃんは自分の小さい影法師を見て、ふと、ある心配を感じました。

――ひょっとすると、自分は本当に狐につかれているかもしれない、ということでした。そうすると、お父さんやお母さんは自分をどうするだろうということでした。

お父さんが樽屋さんの組合へ行って、今晩はまだ帰らないので、文六ちゃんとお母さんは先に寝ることになりました。文六ちゃんは初等科三年生なのにまだお母さんと一緒に寝るのです。ひとり子ですからしかたないのです。

「さあ、お祭の話を、母ちゃんに聞かせておくれ」とお母さんは、文六ちゃんの寝巻きの襟を合わせてやりながら言いました。

文六ちゃんは、学校から帰れば学校のことを、町に行けば町のことを、映画を見てくれば映画のことをお母さんに聞かれるのです。文六ちゃんは話が下手ですから、ちぎれちぎれに話をします。それでもお母さんは、とても面白がって、喜んで文六ちゃんの話を聞いてくれるのでした。

「神子さんね、あれよく見たら、お多福湯のトネ子だったよ」と文六ちゃんは話しました。

お母さんは、「そうかい」と言って、面白そうに笑って、「それから、もう誰が出たかわからなかったかい」と聞きました。

文六ちゃんは思い出そうと、目を大きく見開いてじっとしていましたが、やがて祭の話をやめて、こんなことを言い出しました。

「母ちゃん、夜に新しい下駄を履くと、狐につかれるの?」

お母さんは、文六ちゃんが何を言い出したのかと思い、しばらくあっけにとられて文六ちゃんの顔を見つめていましたが、今晩、文六ちゃんの身の上におおよそどんなことが起こったか、見当がつきました。

「誰がそんなことを言ったの?」

文六ちゃんはむきになって、自分の先の問いを繰り返しました。

「ほんとう?」

「嘘だよ、そんなこと。昔の人がそんなことを言っただけだよ。」

「嘘だね?」

「嘘だとも。」

「きっとだね。」

「きっと。」

しばらく文六ちゃんは黙っていました。黙っている間に、大きい眼玉が二度ぐるりぐるりと回りました。それから言いました。

「もし、ほんとうだったらどうする?」

「どうするって、何を?」とお母さんが聞き返しました。

「もし、僕がほんとうに狐になっちゃったらどうする?」

お母さんは、心からおかしいように笑い始めました。

「ね、ね、ね」と文六ちゃんは、ちょっと照れくさいような顔をして、お母さんの胸を両手でぐんぐん押しました。

「そうだね」と、お母さんはちょっと考えてから言いました。「そしたら、もう家に置いておくわけにはいかないね。」

文六ちゃんはそれを聞くと、寂しげな顔をしました。

「そしたら、どこへ行くの?」

「鴉根山から鴉根の方に行けば、今でも狐がいるそうだから、そっちへ行くんだ。」

「母ちゃんと父ちゃんはどうする?」

するとお母さんは、大人が子供をからかうときにするように、たいへんまじめな顔で、しかつべらしく言いました。

「父ちゃんと母ちゃんは相談をしてね、かわいい文六が狐になってしまったから、私たちもこの世に何の楽しみもなくなってしまったので、人間をやめて狐になることに決めますよ。」

「父ちゃんも母ちゃんも狐になる?」

「そう、二人で、明日の晩に下駄屋さんから新しい下駄を買ってきて、一緒に狐になるんだ。そうして、文六ちゃんの狐を連れて鴉根の方へ行きましょう。」

文六ちゃんは大きい目を輝かせて言いました。

「鴉根って、西の方?」

「成岩の南西の方の山だよ。」

「深い山?」

「松の木が生えているところだよ。」

「猟師はいない?」

「猟師って、鉄砲を撃つ人のことかい?山の中だからいるかもしれないね。」

「猟師が撃ちに来たら、母ちゃんどうしよう?」

「深い洞穴の中に入って三人で小さくなっていれば見つからないよ。」

「でも、雪が降ると餌がなくなるでしょう。餌を拾いに出たとき、猟師の犬に見つかったらどうしよう。」

「そしたら、一生懸命走って逃げましょう。」

「でも、父ちゃんや母ちゃんは速いでいいけど、僕は子供の狐だもん、遅れてしまうもん。」

「父ちゃんと母ちゃんが両方から手を引っ張ってあげるよ。」

「そんなことをしているうちに、犬がすぐ後ろに来たら?」

お母さんはちょっと黙っていました。それから、ゆっくり言いました。もう心からまじめな声でした。

「そしたら、母ちゃんは、びっこをひいてゆっくり行きましょう。」

「どうして?」

「犬は母ちゃんに噛みつくでしょう。そのうちに猟師が来て、母ちゃんを縛っていくでしょう。その間に、坊やとお父ちゃんは逃げてしまうのだよ。」

文六ちゃんはびっくりしてお母さんの顔をまじまじと見ました。

「いやだよ、母ちゃん、そんなこと。そいじゃ、母ちゃんがいなくなってしまうじゃないか。」

「でも、そうするより仕方がないよ。母ちゃんはびっこを引き引きゆっくり行くよ。」

「いやだったら、母ちゃん。母ちゃんがなくなるじゃないか。」

「でも、そうするより仕方がないよ。母ちゃんは、びっこを引き引きゆっくり……」

「いやだったら、いやだったら、いやだったら!」

文六ちゃんはわめきたてながら、お母さんの胸にしがみつきました。涙がどっと流れて来ました。

お母さんも、寝巻きの袖でこっそり目のふちを拭きました。そして文六ちゃんが跳ね飛ばした小さい枕を拾って、頭の下に当てがってやりました。

 

 

 

狐:新美南吉
現代語訳:Relax Stories TV

 

はじめに


新美南吉の小説『狐』は、祭りの夜に下駄を買った文六ちゃんが、狐憑きの迷信におびえる物語です。文六ちゃんとその母親の愛と信頼を描いた感動的な作品であり、南吉の三大狐話の一つとして知られています。この物語は、子供たちの純粋な心と母親の無償の愛を通じて、人間の孤独や恐怖、そして愛の力を深く考えさせられる内容となっています。

人生の教訓

愛と信頼の力
文六ちゃんと母親の関係は、無償の愛と深い信頼に基づいています。母親の愛は、どんな困難な状況でも子供を守り抜く強さを持っています。

迷信や恐怖に対する冷静な対応
物語では、狐憑きの迷信におびえる文六ちゃんが描かれていますが、母親は冷静に対処し、子供を安心させる方法を見つけます。恐怖や迷信に対して冷静に対応することの重要性を教えてくれます。

孤独と人間関係の大切さ
文六ちゃんが狐憑きの迷信におびえる中で、友達や周囲の人々との関係が変わっていく様子が描かれています。孤独を感じることの辛さと、人間関係の大切さを学ぶことができます。

母の愛の深さ
母親が文六ちゃんに対して示す愛情は、自己犠牲をも厭わない深いものであり、母の愛の偉大さを感じさせます。この愛情は、子供にとって大きな安心感と支えとなります。
この物語を通じて、私たちは愛と信頼の力、恐怖に対する冷静な対応、人間関係の大切さ、そして母の愛の深さを学ぶことができます。

 

本編

 


月夜に七人の子供が歩いていました。大きい子供も小さい子供も混ざっていました。月は上から照らしていました。子供たちの影は短く地面に映りました。子供たちは自分の影を見て、ずいぶん大きな頭で、足が短いなあと思いました。そこで、おかしくなって、笑い出す子もありました。あまり格好がよくないので、二、三歩走って見る子もありました。こんな月夜には、子供たちは何か夢のようなことを考えがちでした。子供たちは小さい村から、半里ばかり離れた本郷へ、夜のお祭を見に行くところでした。切通しを登ると、静かな春の夜風に乗って、ひゅうひゃらりゃりゃと笛の音が聞こえてきました。子供たちの足は自然にはやくなりました。すると一人の子供が遅れてしまいました。

「文六ちゃん、早く来い」とほかの子供が呼びました。文六ちゃんは月の光でも、やせっぽちで、色の白い、眼玉の大きい子供です。できるだけ急いでみんなに追いつこうとしました。

「でも俺、お母ちゃんの下駄を履いているもん」と、とうとう鼻を鳴らしました。なるほど細長い足の先には大きな、大人の下駄が履かれていました。

本郷に入るとまもなく、道端に下駄屋さんがあります。子供たちはその店に入っていきました。文六ちゃんの下駄を買うのです。文六ちゃんのお母さんに頼まれたのです。

「あのの、小母さん」と、義則君が口をとがらして下駄屋の小母さんに言いました。「こいつは樽屋の清さの子供だけど、下駄を一足やっとくれや。あとから、お母さんが銭を持ってくるって。」

みんなは、樽屋の清さの子供がよく見えるように前へ押し出しました。それは文六ちゃんでした。文六ちゃんは二つばかりまばたきして突っ立っていました。小母さんは笑い出して、下駄を棚から下ろしてくれました。

どの下駄が足によく合うかは、足に当てて見なければわかりません。義則君が、お父さんのように、文六ちゃんの足に下駄を当てがってくれました。何しろ文六ちゃんは、一人きりの子供で、甘えん坊でした。

ちょうど文六ちゃんが新しい下駄を履いたときに、腰の曲がったお婆さんが下駄屋さんに入って来ました。そしてお婆さんはふとこんなことを言いました。「やれやれ、どこの子だか知らんが、晩に新しい下駄を履くと狐がつくと言うだに。」

子供たちはびっくりしてお婆さんの顔を見ました。

「嘘だい、そんなこと」とやがて義則君が言いました。「迷信だ」とほかの一人が言いました。それでも子供たちの顔には何か心配な色が漂っていました。

「よし、そいじゃ、小母さんがまじないしてやろう」と、下駄屋の小母さんが口軽く言いました。小母さんは、マッチを一本する真似をして、文六ちゃんの新しい下駄の裏に、ちょっと触りました。「さあ、これでよし。これでもう、狐も狸もつかない。」

そこで子供たちは下駄屋さんを出ました。

子供たちは綿菓子を食べながら、稚児さんが二つの扇を眼にも留まらぬ速さで回しながら、舞台の上で舞うのを見ていました。その稚児さんは、お白粉を塗り固めて顔を彩っていますが、よく見ると、お多福湯のトネ子でありましたので、「あれ、トネ子だよ、ふふ」とささやきあったりしました。

稚児さんを見ているのに飽くと、暗いところに行って、鼠花火を弾かせたり、かんしゃく玉を石垣にぶつけたりしました。舞台を照らす明るい電灯には、虫がいっぱい来て、その周りを巡っていました。見ると、舞台の正面のひさしのすぐ下に、大きな赤土色の蛾がぴったり張り付いていました。

山車の鼻先の狭いところで、人形の三番叟が踊り始める頃は、少しお宮の境内の人も少なくなったようでした。花火や、ゴム風船の音も減ったようでした。子供たちは山車の鼻の下に並び、仰向いて人形の顔を見上げていました。

人形は大人とも子供ともつかぬ顔をしています。その黒い眼は生きているとしか思えません。時々、またたきするのは、人形を操る人が後ろで糸を引くのです。子供たちはそんなことはよく知っています。しかし、人形がまたたきすると、子供たちは何だかもの悲しいような、不気味なような気がします。

すると突然、パクッと人形が口を開き、ペロッと舌を出し、あっという間に元のように口を閉じてしまいました。真っ赤な口の中でした。これも、後ろで糸を引く人がやったことです。子供たちはよく知っています。昼間なら、子供たちは面白がってゲラゲラ笑うのです。

けれど子供たちは、いまは笑いませんでした。提灯の光の中で、――影の多い光の中で、まるで生きている人間のように、まばたきしたり、ペロッと舌を出したりする人形……何という不気味なものでしょう。――子供たちは思い出しました、文六ちゃんの新しい下駄のことを。晩に新しい下駄を履くものは狐につかれるといったあの婆さんのことを。子供たちは、自分たちが長く遊びすぎたことに気がつきました。自分たちにはこれから帰ってゆかねばならない、半里の野中の道があったことにも気がつきました。

帰りも月夜でした。しかし、帰りの月夜は、なんとなくつまらないものです。子供たちは静かに――まるで一人一人が自分の心の中を覗いているかのように、黙って歩いていました。切通し坂の上に来たとき、一人の子が、もう一人の子の耳に口を寄せて何かささやきました。するとささやかれた子は別の子のそばに行って何かささやきました。その子はまた別の子にささやきました。――こうして、文六ちゃんのほか、子供たちは何か一つのことを、耳から耳へ言い伝えました。それはこういうことだったのです。「下駄屋さんの小母さんは文六ちゃんの下駄に、ほんとうにマッチをすっておまじないをしていた。まねごとをしただけだった。」

それから子供たちはまたひっそりして歩いてゆきました。ひっそりしているとき、子供たちは考えておりました。――狐につかれるというのは、どんなことなのだろう。文六ちゃんの中に狐が入ることだろうか。文六ちゃんの姿や形はそのままでいて、心は狐になってしまうことだろうか。そうすると、いまもう、文六ちゃんは狐につかれているかもしれないわけだ。文六ちゃんは黙っているからわからないが、心の中はもう狐になってしまっているかもしれないわけだ。

同じ月夜で、同じ野中の道では、誰でも同じようなことを考えるものです。そこでみんなの足は自然にはやくなりました。低い桃の木に囲まれた池のそばへ道が来たときでした。子供たちの中で誰かが、「コン」と小さい咳をしました。ひっそりして歩いているときなので、みんなは、その小さい音でさえ、聞き落とすわけにはいきませんでした。

そこで子供たちは、今の咳は誰がしたのか、こっそり調べました。すると――文六ちゃんがしたということがわかりました。文六ちゃんがコンと咳をした!それなら、この咳には特別な意味があるのではないかと子供たちは考えました。よく考えてみるとそれは咳ではなかったようでした。狐の鳴声のようでした。「コン」とまた文六ちゃんが言いました。文六ちゃんは狐になってしまったと子供たちは思いました。私たちの中には狐が一匹入っていると、みんなは恐ろしく思いました。


樽屋の文六ちゃんの家は、みんなの家とは少し離れたところにありました。広い蜜柑畑になっている屋敷に囲まれ、一軒だけ、谷地にぽつんと立っていました。子供たちはいつも、水車のところから少し回り道をして、文六ちゃんをその家の門口まで送っていました。なぜなら、文六ちゃんは樽屋の清六さんの一人きりの大事な坊ちゃんで、甘えん坊だからです。文六ちゃんのお母さんが、よく蜜柑やお菓子をみんなにくれるので、文六ちゃんと遊んでやってくれと頼みに来るからです。今晩も、お祭に行くときには、その門口まで文六ちゃんを迎えに行ってあげたのでした。

さてみんなは、とうとう水車のところに来ました。水車の横から細い道が分かれて草の中を下へ降りてゆきます。それが文六ちゃんの家にゆく道です。

ところが、今夜は誰も文六ちゃんのことを忘れてしまったかのように、送ってゆこうとする者がありません。忘れたどころではありません、文六ちゃんが怖いのです。

甘えん坊の文六ちゃんは、それでも、いつも親切な義則君だけは、こちらへ来てくれるだろうと思って、後ろを振り返り、水車の影に隠れていきました。

とうとう、誰も文六ちゃんと一緒に行きませんでした。

さて文六ちゃんは、ひとりで、月に明るい谷地へ降りてゆく細道を下り始めました。どこかで蛙がくくみ声で鳴いていました。

文六ちゃんは、ここから自分の家まではもうじきだから、誰も送ってくれなくても困ることはありません。だが、いつもは送ってくれたのです。今夜に限って送ってくれないのです。

文六ちゃんは、ぼんやりしているようでも、すでにちゃんと知っているのです。みんなが、自分の下駄のことで何と言い交わしたか、また、自分が咳をしたためにどういうことになったかを。

祭に行くまでは、あんなに自分に親切にしてくれたみんなが、自分が夜に新しい下駄を履いて狐に取りつかれたかもしれないために、もう誰一人返り見てくれない。それが文六ちゃんには情けないのでした。

義則君なんか文六ちゃんより四年級も上だけれど親切な子で、いつもなら、文六ちゃんが寒そうにしていると、洋服の上に着ている羽織を脱いで貸してくれたものでした(田舎の少年は寒い時、洋服の上に羽織を着ています)。それなのに、今夜は文六ちゃんがいくら咳をしていても羽織を貸してくれませんでした。

文六ちゃんの屋敷の外囲いになっている槙の生垣のところに来ました。背戸口の方の小さい木戸を開けて中に入るとき、文六ちゃんは自分の小さい影法師を見て、ふと、ある心配を感じました。

――ひょっとすると、自分は本当に狐につかれているかもしれない、ということでした。そうすると、お父さんやお母さんは自分をどうするだろうということでした。

お父さんが樽屋さんの組合へ行って、今晩はまだ帰らないので、文六ちゃんとお母さんは先に寝ることになりました。文六ちゃんは初等科三年生なのにまだお母さんと一緒に寝るのです。ひとり子ですからしかたないのです。

「さあ、お祭の話を、母ちゃんに聞かせておくれ」とお母さんは、文六ちゃんの寝巻きの襟を合わせてやりながら言いました。

文六ちゃんは、学校から帰れば学校のことを、町に行けば町のことを、映画を見てくれば映画のことをお母さんに聞かれるのです。文六ちゃんは話が下手ですから、ちぎれちぎれに話をします。それでもお母さんは、とても面白がって、喜んで文六ちゃんの話を聞いてくれるのでした。

「神子さんね、あれよく見たら、お多福湯のトネ子だったよ」と文六ちゃんは話しました。

お母さんは、「そうかい」と言って、面白そうに笑って、「それから、もう誰が出たかわからなかったかい」と聞きました。

文六ちゃんは思い出そうと、目を大きく見開いてじっとしていましたが、やがて祭の話をやめて、こんなことを言い出しました。

「母ちゃん、夜に新しい下駄を履くと、狐につかれるの?」

お母さんは、文六ちゃんが何を言い出したのかと思い、しばらくあっけにとられて文六ちゃんの顔を見つめていましたが、今晩、文六ちゃんの身の上におおよそどんなことが起こったか、見当がつきました。

「誰がそんなことを言ったの?」

文六ちゃんはむきになって、自分の先の問いを繰り返しました。

「ほんとう?」

「嘘だよ、そんなこと。昔の人がそんなことを言っただけだよ。」

「嘘だね?」

「嘘だとも。」

「きっとだね。」

「きっと。」

しばらく文六ちゃんは黙っていました。黙っている間に、大きい眼玉が二度ぐるりぐるりと回りました。それから言いました。

「もし、ほんとうだったらどうする?」

「どうするって、何を?」とお母さんが聞き返しました。

「もし、僕がほんとうに狐になっちゃったらどうする?」

お母さんは、心からおかしいように笑い始めました。

「ね、ね、ね」と文六ちゃんは、ちょっと照れくさいような顔をして、お母さんの胸を両手でぐんぐん押しました。

「そうだね」と、お母さんはちょっと考えてから言いました。「そしたら、もう家に置いておくわけにはいかないね。」

文六ちゃんはそれを聞くと、寂しげな顔をしました。

「そしたら、どこへ行くの?」

「鴉根山から鴉根の方に行けば、今でも狐がいるそうだから、そっちへ行くんだ。」

「母ちゃんと父ちゃんはどうする?」

するとお母さんは、大人が子供をからかうときにするように、たいへんまじめな顔で、しかつべらしく言いました。

「父ちゃんと母ちゃんは相談をしてね、かわいい文六が狐になってしまったから、私たちもこの世に何の楽しみもなくなってしまったので、人間をやめて狐になることに決めますよ。」

「父ちゃんも母ちゃんも狐になる?」

「そう、二人で、明日の晩に下駄屋さんから新しい下駄を買ってきて、一緒に狐になるんだ。そうして、文六ちゃんの狐を連れて鴉根の方へ行きましょう。」

文六ちゃんは大きい目を輝かせて言いました。

「鴉根って、西の方?」

「成岩の南西の方の山だよ。」

「深い山?」

「松の木が生えているところだよ。」

「猟師はいない?」

「猟師って、鉄砲を撃つ人のことかい?山の中だからいるかもしれないね。」

「猟師が撃ちに来たら、母ちゃんどうしよう?」

「深い洞穴の中に入って三人で小さくなっていれば見つからないよ。」

「でも、雪が降ると餌がなくなるでしょう。餌を拾いに出たとき、猟師の犬に見つかったらどうしよう。」

「そしたら、一生懸命走って逃げましょう。」

「でも、父ちゃんや母ちゃんは速いでいいけど、僕は子供の狐だもん、遅れてしまうもん。」

「父ちゃんと母ちゃんが両方から手を引っ張ってあげるよ。」

「そんなことをしているうちに、犬がすぐ後ろに来たら?」

お母さんはちょっと黙っていました。それから、ゆっくり言いました。もう心からまじめな声でした。

「そしたら、母ちゃんは、びっこをひいてゆっくり行きましょう。」

「どうして?」

「犬は母ちゃんに噛みつくでしょう。そのうちに猟師が来て、母ちゃんを縛っていくでしょう。その間に、坊やとお父ちゃんは逃げてしまうのだよ。」

文六ちゃんはびっくりしてお母さんの顔をまじまじと見ました。

「いやだよ、母ちゃん、そんなこと。そいじゃ、母ちゃんがいなくなってしまうじゃないか。」

「でも、そうするより仕方がないよ。母ちゃんはびっこを引き引きゆっくり行くよ。」

「いやだったら、母ちゃん。母ちゃんがなくなるじゃないか。」

「でも、そうするより仕方がないよ。母ちゃんは、びっこを引き引きゆっくり……」

「いやだったら、いやだったら、いやだったら!」

文六ちゃんはわめきたてながら、お母さんの胸にしがみつきました。涙がどっと流れて来ました。

お母さんも、寝巻きの袖でこっそり目のふちを拭きました。そして文六ちゃんが跳ね飛ばした小さい枕を拾って、頭の下に当てがってやりました。

 

 

 

【夜の短編小説:刺青。谷崎潤一郎:現代版】「刺青」は、1910年に発表された短編小説で、彼の処女作として知られています。

刺青:谷崎潤一郎 
現代語訳:Relax Stories TV

 

はじめに


谷崎潤一郎の「刺青」は、1910年に発表された短編小説で、彼の処女作として知られています。この作品は、美と欲望、そしてそれに伴う葛藤を描いた物語です。物語の中心には、腕利きの刺青師・清吉と、彼が理想とする美女が登場します。清吉は、自身の芸術的な欲望を満たすために、絶世の美女に刺青を彫ることを夢見ています。この物語を通じて、谷崎は人間の内面に潜む欲望や美の追求を鋭く描き出しています。

人生の教訓

美の追求とその代償
清吉の美に対する執着は、彼の人生を支配し、最終的には彼自身をも変えてしまいます。美を追求することの重要性と、その代償について考えさせられます。

欲望の力
清吉の欲望は、彼を突き動かし、彼の行動を決定づけます。欲望が人間の行動にどれほどの影響を与えるかを示しています。

変化と成長
物語の中で、娘は刺青を通じて自分自身を見つめ直し、変化していきます。人間は経験を通じて成長し、変わることができるという教訓です。

内面の力
外見だけでなく、内面の力や意志の強さが重要であることを示しています。娘が刺青を受け入れ、自分の内面の力を発揮する姿は、内面の強さの重要性を教えてくれます。

 

本編


それはまだ人々が「愚か」という貴い徳を持っていて、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。殿様や若旦那ののんびりとした顔が曇らないように、御殿女中や華魁の笑いの種が尽きないようにと、おしゃべりを売るお茶坊主幇間といった職業が、立派に存在できたほど、世間がのんびりしていた時期であった。女定九郎、女自雷也、女鳴神など、当時の芝居や草双紙では、美しい者が強者で、醜い者が弱者とされていた。誰も彼も挙げて美しくあろうと努めた結果、天稟の体に絵の具を注ぎ込むまでになった。芳烈な、あるいは絢爛な線と色が、その頃の人々の肌に躍動していた。

馬道を通る客は、見事な刺青のある駕籠舁を選んで乗った。吉原や辰巳の女も、美しい刺青の男に惚れた。博徒や鳶の者はもちろん、街の人々の中には稀に侍なども入墨をした。時々両国で催される刺青会では、参加者が肌を叩き合い、互いに奇抜な意匠を誇り合い、評価しあった。

清吉という若い刺青師には腕前があった。浅草のちゃり文、松島街の奴平、こんこん次郎などにも劣らぬ名手として持て囃され、何十人の人の肌は彼の絵筆の下で絖地となって広げられた。刺青会で高い評価を受けた刺青の多くは、彼の手によるものであった。達磨金はぼかし刺しが得意とされ、唐草権太は朱刺しの名手と讃えられ、清吉はまた奇警な構図と妖艶な線で名を知られていた。

もともと豊国国貞の風を慕って、浮世絵師として生計を立てていた清吉には、刺青師に堕落してからも画工らしい良心と鋭感が残っていた。彼の心を惹きつけるほどの皮膚と骨格を持つ人でなければ、彼の刺青を手に入れることはできなかった。たまに描いてもらえるとしても、一切の構図と費用は彼の望むままであり、その上、耐え難い針先の苦痛を、一か月も二か月もこらえなければならなかった。


この若い刺青師の心には、人知らぬ快楽と宿願が潜んでいた。彼が人々の肌に針を突き刺すとき、真紅に血を含んで膨れ上がる肉の疼きに耐えられず、大抵の男は苦しい呻き声を発したが、その呻き声が激しければ激しいほど、彼は不思議な愉快さを感じていた。刺青の中でも特に痛いとされる朱刺やぼかし刺を用いることを、彼は特に喜んだ。一日平均五六百本の針に刺されて、色上げを良くするために湯に浸かって出てくる人は、皆半死半生の体で清吉の足元に打ち倒れたままで、しばらくは身動きさえできなかった。その無残な姿をいつも清吉は冷やかに眺め、

「嘸さぞお痛みでしょうなあ」

と快そうに笑っている。

意気地のない男が、まるで知死期の苦しみのように口を歪め、歯を食いしばり、ひいひいと悲鳴をあげることがあると、彼は、

「お前さんも江戸っ児だ。辛抱しなさい。―――この清吉の針は飛び切りに痛いのだから」

こう言って、涙にうるんだ男の顔を横目で見つつ、かまわず刺し続けた。その後、我慢強い者がグッと胆を据えて、眉一つしかめず耐えていると、

「ふむ、お前さんは見かけによらない突っ張り者だ。―――だが見なさい、今にそろそろ疼き出して、どうにもこうにもたまらなくなるから」

と、白い歯を見せて笑った。

彼の長年の宿願は、光輝く美女の肌を得て、その肌に己の魂を刺し込むことだった。その女の素質や容貌についてはいろいろな注文があった。ただ美しい顔や美しい肌だけでは、彼は中々満足することができなかった。江戸中の色街で名を響かせた女を調べても、彼の気分にぴったり合う味わいや調子は、なかなか見つからなかった。まだ見ぬ人の姿かたちを心に描き、三年四年は空しく憧れながらも、彼はなおその願いを捨てずにいた。

丁度四年目の夏のある夜、深川の料理屋平清の前を通りかかったとき、彼はふと門口に待っている駕籠の簾の影から、真っ白な女の素足がこぼれているのに気がついた。鋭い彼の眼には、人間の足はその顔と同じように複雑な表情を持って映った。その女の足は、彼にとってまるで貴重な肉の宝玉のように思えた。親指から小指まで整った繊細な五本の指、薄紅色の貝にも劣らぬ爪の色合い、珠のような踵のまる味、清洌な岩間の水が絶えず足下を洗うかのように疑われる皮膚の潤沢。この足こそ、やがて男の生血で肥え太り、男の骸を踏みつける足である。この足を持つ女こそは、彼が永年たずねあぐんだ、女の中の女であろうと思われた。清吉は躍る胸を抑えて、その人の顔が見たくて駕籠の後を追ったが、二、三町行くと、その影はもう見えなくなっていた。

清吉の憧れが、激しい恋に変わってその年も暮れ、五年目の春も半ば老い込んだある日の朝であった。彼は深川佐賀街の寓居で、房楊枝をくわえながら、錆竹の濡れ縁にある萬年青の鉢を眺めていた。庭の裏木戸を訪ねる音がして、袖垣の影から、ついぞ見慣れぬ小娘が這入って来た。

それは清吉が馴染みの辰巳の芸妓から寄こされた使いの者であった。

「姐さんからこの羽織を親方へお手渡しして、何か裏地へ絵模様を描いてくださるようにお頼み申し上げて………」と、娘はウコンの風呂敷をほどいて、中から岩井杜若の似顔絵のたとうに包まれた女性用の羽織と、一通の手紙を取り出した。その手紙には、羽織のことをくれぐれも頼んだ末に、使いの娘は近々私の妹分として御座敷へ出るはず故、私のことも忘れずに、この娘を引き立ててやってくださいと書き添えられてあった。

「どうも見覚えのない顔だと思ったが、それじゃお前はこの頃こちらへ来たのか」

こう言って清吉は、じっくりと娘の姿を見守った。年頃は漸う十六か七かと思われたが、その娘の顔は、不思議にも長い月日を色里に暮らして、幾十人の男の魂を弄んだ年増のように非常に整っていた。それは国中の罪と財が流れ込む都で、何十年の昔から生き代わり死に代わった麗しい男女の夢から生まれた器量であった。

「お前は去年の六月ごろ、平清から駕籠で帰ったことがあろうがな」

こう訊ねながら、清吉は娘を縁へかけさせて、備後表の台に乗った繊細な素足を仔細に眺めた。

「ええ、あの時分なら、まだお父さんが生きていたから、平清へもたびたびまいりましたのさ」

と、娘は奇妙な質問に笑って答えた。

「丁度これで足かけ五年、俺はお前を待っていた。顔を見るのは初めてだが、お前の足には覚えがある。―――お前に見せてやりたいものがあるから、上ってゆっくり遊んで行くといい」

それは古代の暴君、紂王の寵妃、末喜を描いた絵であった。瑠璃珊瑚を鏤ちりばめた金冠の重さに堪えられぬなよやかな体を、ぐったり勾欄に靠れかかって、羅綾の裳裾を階の中段にひるがえし、右手に大杯を傾けながら、今しも庭前に刑せられんとする犠牲の男を眺めている妃の風情と言い、鉄の鎖で四肢を銅柱へ縛り付けられ、最後の運命を待ち構えつつ、妃の前に頭をうなだれ、眼を閉じた男の顔色と言い、物凄いまでに巧みに描かれていた。

娘は暫くこの奇怪な絵の面を見入っていたが、知らず知らずその瞳は輝き、その唇は震えた。怪しくもその顔はだんだんと妃の顔に似通ってきた。娘はそこで隠れたる真の「己」を見出した。

「この絵にはお前の心が映っているぞ」

こう言って、清吉は快く笑いながら、娘の顔を覗き込んだ。

「どうしてこんな恐ろしいものを、私にお見せになるのですか?」

と、娘は青ざめた額を擡げて言った。

「この絵の女はお前だ。この女の血が、お前の体に流れているはずだ」

と、彼はさらに他の一本の画幅を広げた。それは「肥料」という画題であった。画面の中央に、若い女が桜の幹に身を寄せ、足下に累々と倒れている多くの男たちの屍骸を見つめている。女の周りを舞い飛び、凱歌を歌う小鳥たち、女の瞳に溢れる抑え難き誇りと歓びの色。それは戦の跡の景色なのか、それとも花園の春の風景なのか。それを見せられた娘は、われとわが心の底に潜んでいた何物かを探りあてたような心地であった。

「これはお前の未来を絵に現わしたのだ。ここに倒れている人たちは、皆これからお前のために命を捨てるのだ」

こう言って、清吉は娘の顔と寸分違わぬ画面の女を指さした。

「後生だから、早くその絵をしまってください」

と、娘は誘惑を避けるかのように画面に背を向け、畳の上へ突っ伏したが、やがて再び唇を震わせた。

「親方、白状します。私はお前さんのお察し通り、その絵の女のような性分を持っていますのさ。―――だからもう堪忍して、それを引っ込めておくんなさい」

「そんな卑怯なことを言わずに、もっとよくこの絵を見るがいい。それを恐ろしがるのも、まあ今のうちだろうよ」

こう言った清吉の顔には、いつもの意地悪い笑いが漂っていた。

しかし、娘の頭は容易に上がらなかった。襦袢の袖で顔を覆い、いつまでも突っ伏したまま、

「親方、どうか私を帰しておくれ。お前さんの側にいるのは恐ろしいから」

と、幾度か繰り返した。

「まあ待ちなさい。俺がお前を立派な器量の女にしてやるから」

と言いながら、清吉は何気なく娘の側に近寄った。彼の懐には、かつて和蘭医からもらった麻酔剤の瓶が隠されていた。

日はうららかに川面を射て、八畳の座敷は燃えるように照らされた。水面から反射する光線が、無心に眠る娘の顔や、障子の紙に金色の波紋を描いてふるえていた。部屋のしきりを閉め切って刺青の道具を手にした清吉は、しばらくはただ恍惚として座っているばかりであった。彼は今、初めて女の妙相をじっくりと味わうことができた。その動かぬ顔に向かい合い、十年百年この一室に静坐しても、なお飽きることはないだろうと思われた。古代エジプトの人々が、荘厳な大地をピラミッドとスフィンクスで飾ったように、清吉は清浄な人間の皮膚を、自分の恋で彩ろうとするのであった。

やがて彼は左手の小指と無名指、そして拇指の間に挿した絵筆の穂を、娘の背に寝かせ、その上から右手で針を刺していった。若い刺青師の心は墨汁の中に溶けて、皮膚に滲んだ。焼酎に交ぜて刺り込む琉球朱の一滴一滴は、彼の命のしずくであった。彼はそこで我が魂の色を見た。

いつしか昼も過ぎて、のどかな春の日はやがて暮れかかったが、清吉の手は少しも休まず、女の眠りも破れなかった。娘の帰りの遅きを案じて迎えに出た箱屋までが、

「あの娘はもうとっくに帰って行きましたよ」

と云われて追い返された。月が対岸の土州屋敷の上にかかり、夢のような光が沿岸一帯の家々の座敷に流れ込む頃には、刺青はまだ半分も出来上がらず、清吉は一心に蝋燭の心を掻き立てていた。

一点の色を注ぎ込むのも、彼にとっては容易な業わざでなかった。刺す針、抜く針の度ごとに深い吐息をついて、自分の心が刺されるように感じた。針の痕は次第に巨大な女郎蜘蛛の形象を具え始めて、再び夜がしらしらと白み初めた時分には、この不思議な魔性の動物は、八本の肢を伸ばしつつ、背一面に蟠わだかまった。

春の夜は、上り下りの河船の櫓声に明け放れて、朝風を孕んで下る白帆の頂から薄らぎ初める霞の中に、中洲、箱崎霊岸島の家々の甍がきらめく頃、清吉は漸く絵筆を擱おいて、娘の背に刺り込まれた蜘蛛のかたちを眺めていた。その刺青こそが彼の生命のすべてであった。その仕事をなし終えた後の彼の心は空虚であった。


二つの人影はそのまま暫く動かなかった。そうして、低く、かすれた声が部屋の四壁に震えて聞こえた。

「私はお前を本当の美しい女にするために、刺青の中に自分の魂を込めたのだ。もう今からは日本国中に、お前に優る女は居ない。お前はもう今までのような臆病な心は持っていないのだ。男という男は、皆なお前の肥料になるのだ。………」

その言葉が通じたか、かすかに糸のような呻き声が女の唇にのぼった。娘は次第に知覚を回復してきた。重く引き入れては重く引き出す息に、蜘蛛の肢は生けるが如く蠕動した。

「苦しかろう。体を蜘蛛が抱きしめているのだから。」

こう言われて、娘は細く無意味な目を開いた。その瞳は夕月の光を増すように、だんだんと輝いて男の顔に照った。

「親方、早く背中の刺青を見せてください。お前さんの命をもらった代わりに、私はきっと美しくなったでしょうね。」

娘の言葉は夢のようであったが、しかしその調子にはどこか鋭い力がこもっていた。

「まあ、これから湯殿へ行って色上げをするのだ。苦しかろうが、ちょっと我慢しな。」

と、清吉は耳元へ口を寄せて、労わるように囁いた。

「美しくなれるのなら、どんなことでも辛抱しますよ。」

と、娘は身内の痛みを抑えて、強いて微笑んだ。

「ああ、湯が滲みて苦しいこと。………親方、後生だから私を捨てて、二階へ行って待っていておくれ。私はこんなみじめな姿を男に見られるのが口惜しくてたまらないから。」

娘は湯上りの体を拭いもせず、いたわる清吉の手をつきのけて、激しい苦痛に流しの板の間へ身を投げたまま、魘うなされるように呻いた。気狂じみた髪が悩ましげにその頬へ乱れた。女の背後には鏡台が立てかけてあった。真っ白な足の裏が二つ、その面に映っていた。

昨日とは打って変わった女の態度に、清吉は一方ならず驚いたが、言われるままに独り二階に待っていると、凡そ半時ばかり経った頃、女は洗い髪を両肩へすべらせ、身じまいを整えて上って来た。そうして苦痛の影も止まらぬ晴れやかな眉を張って、欄干に靠れながらおぼろにかすむ大空を仰いだ。

「この絵は刺青と一緒にお前にやるから、それを持ってもう帰るがいい。」

こう言って清吉は巻物を女の前に置いた。

「親方、私はもう今までのような臆病な心を、さらりと捨ててしまいました。―――お前さんは真先に私の肥料になったんだねえ。」

と、女は剣のような瞳を輝かせた。その耳には凱歌の声が響いていた。

「帰る前にもう一遍、その刺青を見せてくれ。」

清吉はこう言った。女は黙って頷き、肌を脱いだ。折から朝日が刺青の面に射して、女の背中は燦爛とした。

【夜のグリム童話:聖母マリアの子供】意地を張りすぎると自分自身に跳ね返ってくる!

003聖母マリアの子供
現代語訳:Relax Stories TV

 

 

はじめに

グリム兄弟が編纂したグリム童話の一つとして、聖母マリアが神から授かった子供をめぐる物語です。聖母マリアの純潔を疑う周囲の人々の非難に直面しますが、彼女は神への信仰を失わずに耐え抜きます。やがて真実が明らかになり、聖母マリアの正当性が証明されていきます。

人生に役立つ教訓:

信仰と信念の大切さ - 聖母マリアは困難な状況の中でも、神への信仰を失わずに耐え抜きました。厳しい環境下でも信念を持ち続けることの重要性が示されています。

寛容と理解の必要性 - 聖母マリアを非難した人々は最終的に真実を認め、彼女への理解を深めていきます。早急に判断せず、他者に寛容であることの大切さが説かれています。

希望を持ち続ける姿勢 - 聖母マリアは神の計画を信じ、その実現を待ち続けました。絶望的な状況の中でも希望を失わずに待つことの重要性が描かれています。


大きな森のすぐ近くに木こりの夫婦が住んでいました。子供は一人だけで、3歳の女の子でした。

しかし、夫婦はとても貧しかったのでもう毎日食べるパンがなくなり、どうしたら子供に食べ物を手に入れられるかわかりませんでした。

ある朝、木こりは悲しみにくれながら森の仕事にでかけました。

そして木を切っていると、突然、頭に輝く星の冠をつけている背の高い美しい女の人が前に立ち、言いました。

「私は聖母マリアイエス・キリストの母です。

お前は貧しく困っていますね。子供を私のところにつかわしなさい。その子を連れて行き、母となり、世話をします。」

木こりはその言葉に従い、子供を連れていき、聖母マリアに渡しました。そして聖母は子どもを天国へと連れていきました。

天国で子供は順調に生活し、砂糖菓子を食べ、甘いミルクを飲みました。また服は金でできており、天使たちと遊びました。

娘が14歳になったある日、聖母マリアは呼んでいいました。「子供よ、私は長い旅にでかけます。

だからお前が天国の13の扉の鍵を管理するのです。このうちの12の扉は開けて中にある栄光を見てもいいです。

しかし13番目は、この小さな鍵はその扉のものですが、開けるのを禁じます。

開けないよう注意しなさい、さもないとお前に不幸がふりかかります。」
娘は従うと約束しました。

そして聖母マリアが出かけていなくなると、娘は天国の部屋を調べ始めました。

毎日一部屋ずつ開けていき、とうとう12部屋を一回りしました。それぞれの部屋には大きな光の真ん中に使徒の一人が座っていました。

そして娘はその荘厳さと豪華さに喜び、いつもついてきている天使たちも一緒に喜びました。それで禁じられた扉だけが残りました。

娘はその扉の後ろに何が隠されているのか知りたくてたまりませんでした。

それで天使たちに、「ちゃんと開けるのではないし、中にも入らなくて、ただ鍵をあけて開いたところからちょっと中を覗くだけよ。」と言いました。

「ああ、だめよ。それは罪になるわ。マリア様は禁じてるのよ、そんなことをしたらあなたは罪を犯すことになるわ。」と天使たちはいいました。

すると娘は黙りましたが、見たいという気持ちは静まることなくいつまでも心に残り、娘を苦しめ、気が休まることがありませんでした。

そして天使たちがでかけてしまったあるとき、「今は私一人だわ。中を覗けるのよ。そうしたって誰も知りっこないもの。」と思いました。

鍵を探し出し、手に持ったら、次は錠に挿しこみ、差し込んだら鍵を回しました。

すると扉はパッと開き、炎と豪華さの中に三位一体が座っているのが見えした。娘はそこに暫くとどまって、ぼうぜんとしてあらゆるものを眺めていました。

それから指で少し光に触れてみると指は全く金になりました。とっさに大きな恐怖にとらわれ、娘は荒々しく扉を閉め、逃げました。

どうしても恐怖は去らず、心臓はどきどきしっぱなしで静まりませんでした。また金もどんなにこすっても洗っても指からとれませんでした。

まもなく聖母マリアが旅から帰ってきて、娘を前に呼び、天国の鍵を返してくれるようにたのみました。

娘が鍵束を渡すと、聖母マリアは眼を覗き込み「13番目の扉も開けませんでしたか?」と言いました。

「いいえ。」と娘は答えました。聖母マリアは手で娘の心に触れ、ドキドキしているのを感じたので、娘が命令に背き扉を開けたことを見抜きました。

それでもう一度「確かにそうしなかったのですか?」とたずねました。「はい。」と娘は2回目を答えました。

そのとき聖母マリアは天の炎にふれたことから金になった指に気づき、子供が罪を犯したことを見抜き、3回目に「やりませんでしたか。」と言いました。

「はい。」と娘は3回目の答をしました。すると聖母マリアは「お前は命令に背いたばかりか嘘もついたね。お前はもう天国にいる資格はない。」と言いました。

それから娘は深い眠りにおち、目を覚ましたときは下界の荒野の真ん中に横たわっていました。娘は叫びたかったのですが、声が出ませんでした。

娘はパッと飛び起きて、逃げ出したいと思いました、しかしどこへ向かおうと、抜け出せないいばらの厚い垣にいつもさえぎられてしまうのでした。

娘が閉じ込められていた砂漠に古いくぼみのある木が立っていました。そしてそれを娘の住まいにしなければなりませんでした。

夜が来るとその中に入り込み、そこで眠りました。ここではまた嵐や雨をしのげましたが、惨めな生活でした。

娘は、天国でどれだけ幸せだったか、天使たちがどれだけ自分と一緒に遊んだかを思い出して激しく泣きました。木の根や野生のイチゴだけが娘の食べ物でした。これらを求めて娘は行けるだけ探しました。

秋には落ちた木の実や葉を拾い、穴の中へ運びました。

木の実は冬の間の食料で、雪と氷になったとき凍らないようにかわいそうな小さな動物のように葉っぱの中に入れました。まもなく娘の服はぼろぼろになり、一枚一枚次々と体から落ちてしまいました。

しかし、太陽が再び暖かく照ってくるとすぐ、娘は外に出て、木の前に座りました。娘の長い髪はマントのように娘のまわりを被っていました。こうして娘は毎年毎年座って、世界の苦しみと惨めさを感じていました。

ある日、木々が再びみずみずしい緑におおわれた頃、その国の王様が森で狩をしていました。ノロジカを追いかけて、その鹿がこの森を囲っているやぶに逃げたので、王様は馬を降り、やぶをかきわけ、刀で道をつけました。

とうとう無理矢理道を通っていったとき、木の下にすばらしく美しい乙女が座っているのが見えました。

娘はそこに座り、足元まで金髪で被われていました。王様はじっと立ち尽くし、驚きに満たされながら娘をみつめました。

それから娘に話しかけて言いました。「君は誰?どうしてここの荒野に座っているの?」しかし娘は何も答えませんでした。

というのは娘は口を開けなかったからです。王様は続けて言いました。「私と一緒にお城にきませんか?」そのとき娘は少しうなづきました。

王様は娘を両腕に抱えて馬のところまで運び、一緒に馬に乗って帰りました。お城につくと王様は娘に美しい衣服を着させ、あらゆるものをたくさん与えました。

娘は口が言えなかったけれど、それでもとても美しく魅力的だったので王様は心から娘を愛するようになり、まもなく娘と結婚しました。


ほぼ1年が過ぎて、お妃様は男の子を産みました。その後すぐ、ベッドで一人ねていた夜、聖母マリアがお妃様のところに現われて言いました。

「もしお前が真実を言い、禁じられた扉を開けたと告白するなら、お前の口を開き、言葉を話せるようにしてあげよう。

しかし、もしお前が罪をとどめあくまでも否定するなら、お前の生まれたばかりの子供を連れていきますよ。」

それからお妃様は答えることが許されましたが、頑固に、「いいえ、私は禁じられた扉を開けませんでした。」と言いました。


それで聖母マリアはお妃様の両腕から赤ん坊をとりあげ、その子と一緒に消えてしまいました。

次の朝、子供が見つからなかったとき、お妃様は人食いだ、自分の子供を殺してしまったと人々の間でささやかれました。

お妃様にはこれがみんな聞こえていても、それは違うということを何も言えませんでした。しかし、王様はその噂を信じようとはしませんでした。

というのはお妃様をとても愛していたからです。

それから1年が経ったときお妃様は再び男の子を産みました。

そして夜に聖母マリアが再びお妃様のところに来て言いました。

「お前が禁じられた扉を開けたと告白するなら、お前の子供を返し、お前の舌の縛りを解いてやろう。しかしお前が罪を続け、否定するなら、この赤ん坊も私と一緒に連れていきますよ。」

お妃様は再び「私は禁じられた扉を開けませんでした。」

と言いました。すると聖母はお妃様の腕から赤ん坊をとりあげ、天国に行ってしまいました。

次の朝、この子供も消えてしまったとき、きっとお妃様は子供をむさぼり食ってしまったのだと、人々はかなり大声で言いました。

そして王様の相談役たちはお妃様を裁判にかけなくてはいけないと要求しました。

ところが、王様はお妃様をとても深く愛していたのでそれを信じようとはしませんでした。

そして相談役たちにそれについてもう何も言うな、言えばくびをはねるぞ、と命じました。

次の年、お妃様は美しい娘を産みました、そして三たび聖母マリアは夜お妃様のところに来て、「私について来なさい。」と言い、お妃様の手をとり、天国へ導きました。

そしてそこでお妃様の上の二人の子供たちを見せました。子どもたちはお妃様に微笑み、その世界のボールで遊んでいました。

それでお妃様が喜んでいると、聖母マリアは言いました。

「お前の心はまだ和らがないのか?お前が禁じられた扉を開けたと認めれば、お前の二人の息子を返してやろう。」

しかし三度お妃様は答えました。「いいえ、私は禁じられた扉を開けませんでした。」

すると聖母マリアはお妃様を地上に帰し、前と同じように3番目の子供をとってしまいました。

次の朝、子供がいなくなったことが広く伝わると、人々はみな大声で叫びました。

「お妃様は人食いだ!裁判にかけなくちゃ!」そして王様はもう相談役たちをおさえておけなくなりました。

裁判が行われ、お妃様は自分を弁護して答えることができなかったので火あぶりの刑が宣告されました。

木が集められ、杭にしっかり縛られ、火が周りで燃え始めたとき、お妃様の誇りの固い氷がとけました。

後悔の気持ちでいっぱいで、お妃様は思いました。「死ぬ前に扉を開けたと告白できさえすればいいのに...」すると声が戻ってきて、大声で言いました。

「はい、マリア様、扉を開けました。」途端に、雨が空から降り注ぎ、炎を消しました。

一筋の光がお妃様の上に降り注ぎ、聖母マリアがそばに二人の息子を従え、赤ん坊を腕に抱いて降りてくると、やさしく語りかけて言いました。

「罪を悔いあらため認める者は許されます。」それから3人の子供たちを渡し、舌の縛りを解き、お妃様が一生幸せに暮らしていけるように約束しました。


いかがでしたか?
聖母マリアの子供」の物語はこれにて幕を閉じます。
また別の機会に、新たな物語の世界をご一緒に探索できることを心より楽しみにしております。
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今後ともより良い作品をお届けできるよう、尽力してまいります。
ありがとうございました。

4,665文字

レ・ミゼラブル 第一部 ファンティーヌ 第七編 シャンマティユー事件 第八編 反撃

前回、第一部 ファンティーヌ  第六編   ジャヴェルまで

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第一部 ファンティーヌ  第七編   シャンマティユー事件

 

1.サンプリス修道女

 

次に述べる出来事は、モントルイュ・スュール・メールに広く知られているわけではない。しかし、この街に伝わってきた少しの事がらは、深い印象を人の心に残したので、詳細にその出来事を叙述しない時には、本書の中に大きな欠陥をきたすことになるだろう。それらの詳細の中には、読者が二、三の真実らしからぬ事情に接することもあるだろう。しかし、それも事実を尊重するために、書き漏らさないことにする。

さて、ジャヴェルが訪れた日の午後、マドレーヌ氏はいつものとおりファンティーヌを見に行った。ファンティーヌのそばに行く前に、彼はサンプリス修道女を呼んだ。病舎で働いていた二人の修道女は、すべての慈恵院の看護婦の例にもれず、聖ラザール派の修道女で、一人をペルペチューと言い、一人をサンプリスと言った。

ペルペチュー修道女は、ありふれた田舎の女性であり、粗野な慈恵院の看護婦であり、一般的な職業に就くのと同じように、神の務めに入ってきたのだった。こういうタイプの人は珍しくはない。修道団というものは、カプュサン派やユルシュリーヌ派の修道女にたやすく鋳直された田舎者の重々しい陶器をも喜んで受け入れるものである。その粗野な人たちも、信仰の道の粗末な仕事には役立つ。牛飼いがカルメル修道士に変わるのも、少しも不思議ではない。それはわけもないことである。田舎の無学と修道院の無学には共通点があり、それが彼女たちの修道女としての準備を整えている。そして、やがて野の片隅の田舎者は僧侶と肩を並べることになる。田舎者の仕事着を少し広くすれば、そのまま道服である。ペルペチュー修道女はきつい信者であり、ポントアーズの近くのマリーヌの生まれで、田舎なまりを出し、聖歌をうたい、何かぶつぶつつぶやき、患者の頑迷や偽善の度に応じて薬の中の砂糖を加減し、病人を手荒く扱い、瀕死の者に対して気むずかしく、彼らの顔に神を思い起こさせるようなことをし、臨終の苦しみに向かって荒々しい祈りをぶっつける、粗暴で正直で赤ら顔の女性であった。


サンプリス修道女は白蝋のように真っ白な女性であった。ペルペチュー修道女と並べると、細巻きの蝋燭に対する大蝋燭のように輝いていた。ヴァンサン・ド・ポールは自由と奉仕とのこもった次のみごとな言葉のうちに、慈恵院看護婦の姿を完全に定めた。「修道院としてはただ病舎を、室としては唯一の貸間を、礼拝所としてはただ教区の会堂を、回廊としてはただ街の街路や病舎の広間を、垣根としてはただ服従を、鉄門としてはただ神の恐れを、頭被としてはただ謙遜を、彼女らは有するのみならん。」かかる理想はサンプリス修道女の内に生きていた。誰もサンプリス修道女の年齢を測り得る者はいなかった。かつて青春の時代があったとは見えず、また決して老年になるということもなさそうだった。平静で謹厳、冷静で育ちも良く、嘘を言ったことのない人――あえて女性とは言わないだろう――であった。

脆弱に見えるほど穏やかであったが、また花崗石よりも堅固であった。不幸な者に触れる彼女の指は、細く清らかに優しかった。その言葉には、まるで沈黙が宿っているかのようだった。必要なこと以外は口をきかず、しかもその声の調子は、懺悔室においては信仰の心を起こさせ、客間においては人の心を魅するものであった。そして優しさは常に粗末な毛織の着物に満足し、荒い感触によって絶えず天と神とを忘れずにいた。それからなお特に力説しなければならない一事は、決して嘘を言わなかったことである。何らかの利害関係があるなしにかかわらず、真実でないこと、まったくの真実でないことは決して言わなかったこと、それがサンプリス修道女の特質であった。それが彼女の徳の基調であった。彼女は、その動かし難い真実によって、会衆の中で聞こえていた。

シカール修道院長もサンプリス修道女のことを聾唖のマシユーに与える手紙の中で述べたことである。およそ人はいかに誠実であり公明であり純潔であっても、皆その誠直の上には少なくとも罪なきわずかな虚言の一片くらいは有するものである。しかし彼女には少しもそれがなかった。わずかな嘘、罪なき嘘、そういうものはいったい有り得るであろうか。嘘をつくということは悪の絶対の形である。あまり嘘はつかないということは有り得ないことである。少しでも嘘を言う人はすべて嘘を言うのと同じである。嘘を言うということは悪魔の貌である。悪魔は二つの名を持っている、すなわちサタンおよびマンソンジュの二つを。かく彼女は考えていた。そしてまた考えのとおりに行なった。その結果、前述のごとく彼女は純白な色を呈し、その輝きは彼女の唇や目をも覆っていた。その微笑も白く、目つきもまた白かった。その内心の窓ガラスには、一筋の蜘蛛の巣もなく、一点の埃もかかっていなかった。聖ヴァンサン・ド・ポール派の中に身を投じるや、彼女は特にサンプリスの名前を選んでつけた。

シシリーのサンプリスといえば人の知る有名な聖女である。聖女はシラキューズで生まれたのであって、セゲスタで生まれたと嘘をつけば生命は助かるのであったが、嘘を答えるよりもむしろ両の乳を引き抜かれる方を好んだのである。その聖女の名前を受けることが彼女の心にかなったのだった。
サンプリス修道女は、初めて組合に入った頃、二つの欠点を持っていた。美食を好み、手紙をもらうことが好きだった。しかし、次第にそれを矯正していった。彼女は大きい活字のラテン語の祈祷書のほかは何も読まなかった。彼女はラテン語は知らなかったが、その書物の意味はよく理解していた。この敬虔な婦人はファンティーヌに愛情を持っていた。おそらくファンティーヌの中にある美徳を感じたのであろう。そして彼女はほとんど他を捨てて、ファンティーヌの看護に身を捧げていた。


マドレーヌ氏はサンプリス修道女を片隅に呼んで、ファンティーヌのことをくれぐれも頼んだ。後になって、彼女はその声に異常な調子がこもっていたことを思い出した。

サンプリス修道女を離れて、彼はファンティーヌに近寄った。ファンティーヌは毎日、マドレーヌ氏が来るのを待っていた。まるで暖かな光と喜びを待つかのように。彼女はよく修道女たちに言った。「私は市長さんがここにおられる時しか生きている心地はしません。」

その日はファンティーヌの熱が高かった。マドレーヌ氏を見ると、すぐに尋ねた。「あの、コゼットは?」彼は微笑みながら答えた。「じきにきます。」

マドレーヌ氏はファンティーヌに対して、いつもと少しも様子が違わなかった。ただ彼はいつも三十分だけなのに、その日は一時間とどまっていた。それをファンティーヌは非常に喜んだ。彼はそこにいる人たちに、病人に少しも不自由をさせないよう、繰り返し頼んだ。ちょっと彼の顔がひどく陰鬱になるのを気づいた者もあった。しかし医者が彼の耳に身をかがめて「だいぶ容態が悪いようです。」と言ったことが知れると、その理由はすぐに解かれた。

それから彼は市役所に帰った。書斎に掛かっているフランスの道路明細地図を彼が注意深く調べているのを給仕は見た。彼は紙に鉛筆で何か数字を書き留めた。

 

2.スコーフレール親方の烱眼

街はずれに、スコーフラエルをフランス風にしてスコーフレール親方と呼ばれている一人のフランドル人が、貸し馬や「任意貸し馬車」をやっていた。マドレーヌ氏は市役所からその家に向かった。

スコーフレールの家に行く最も近い道は、マドレーヌ氏が住んでいた教区の司祭邸がある人通りの少ない街路だった。司祭は人のいうところによると物事をよく理解した立派で尊敬すべき人だった。マドレーヌ氏がその司祭邸の前に通りかかった時、街路にはただ一人の通行人がいるだけだったが、その人は次のようなことを目撃した。市長は司祭の住居を通り越して足を止め、じっとたたずんでいたが、再び足を返し、司祭邸の戸のところまで戻ってきた。その戸は中門で、鉄の戸たたきがついていた。彼はすぐにその槌に手をかけ振り上げたが、ふいに手を休め、しばらく考え込んだ。しかし、やがて槌を強く打ち下ろさず、静かに元に戻し、前とは違って少し急ぎ足で道を進んでいった。

マドレーヌ氏が尋ねて行った時、スコーフレールは家にいて馬具を繕っていた。


「スコーフレール君、」と彼は尋ねた、「馬の良いのがあるかね。」

「市長さん、私どもの馬は皆、良いです。」とそのフランドル人は言った。「あなたが良い馬とおっしゃるのは一体どういうんです?」

「一日に二十里行ける馬なんだ。」

「なんですって!」とその男は言った。「二十里!」

「さよう。」

「箱馬車をつけてですか。」

「ああ。」

「それだけかけてから後はどのくらい休めます?」

「場合によっては翌日また出立しなければならないんだが。」

「同じ道程みちのりをですか。」

「さよう。」

「いやはや! 二十里ですな。」

マドレーヌ氏は鉛筆で数字を書きつけておいた紙片をポケットから取り出した。彼はそれをフランドル人に見せた。それには、五、六、八半という数字が書いてあった。

「このとおりだ。」と彼は言った。「総計十九半だが、まあ二十里だね。」

「市長さん、」とフランドル人は言った、「間に合わせましょう。あのかわいい白馬です。時々歩いてるのを御覧なすったことがあるでしょう。下ブーロンネー産のかわいい奴です。大変な元気者です。最初は乗馬にしようとした人もあったですが、どうもあばれ者で、だれ彼の用捨なく地面に振り落とすという代物です。性格が悪いという理由から、誰も手をつける者がいなかった。そこを私が買い取って馬車につけてみました。ところが旦那、それが奴の気に入ったと見えて、おとなしい小娘のようで、走ることといったら風のようです。ええ、まったく乗るわけにはいきません。乗馬になるのは気に合わないと見えます。だれにだって望みがありますからな。引くのならよろしい、乗せるのはごめんだ。奴の心はまあそんなものでしょう。」

「その馬なら今言った旅ができようね。」

「ええ、二十里くらいは。かけとおして八時間足らずでやれます。ですが、条件付きです。」

「どういう?」

「第一に、半分行ったら一時間休ませてください。その時に食べ物をやりますが、宿の馬丁が麦を盗まないように、食ってる間ついていてもらわなければいけません。宿屋では麦は馬に食われるより、廐の小僧どもの飲み代になってしまうことをよく見かけますからな。」

「人をつけておくことにしよう。」

「第二に……馬車は市長さんがお乗りになるんですか。」

「そうだ。」

「馬を使うことを御存じですか。」

「ああ。」

「では馬を軽くしてやるために、荷物を持たないで旦那一人お乗りなすってください。」

「よろしい。」

「ですが旦那一人だと、御自分で麦の番をしなければならないでしょう。」

「承知している。」

「それから、一日に三十フランいただきたいのです。休む日も勘定に入れて。一文も引けません。それから馬の食い料も旦那の方で持っていただきます。」

マドレーヌ氏は金入れからナポレオン金貨三個を取り出して、それをテーブルの上に置いた。

「では二日分前金として。」

「それから第四に、そんな旅には箱馬車はあまり重すぎて馬を疲らすかも知れません。今私の家にある小馬車で我慢していただきたいものですが。」

「よろしい。」

「軽いですが、幌がありませんよ。」

「そんなことはどうでもいい。」

「でも、旦那、冬ですよ……。」

マドレーヌ氏は答えなかった。フランドル人は言った。

「ひどい寒さですが、大丈夫でしょうか。」

マドレーヌ氏はなお黙っていた。スコーフレール親方は続けて言った。

「雨が降るかもしれませんよ。」

マドレーヌ氏は頭をあげて、そして言った。

「その小馬車と馬とを、明朝四時半にわしの家の門口までつけてほしいね。」

「よろしゅうございます、市長さん。」とスコーフレールは答えた。それから彼はテーブルの木の中についている汚点を親指の爪でこすりながら、自分の狡猾さを隠す時のフランドル人共通の何気ない様子をして言った。

「ちょっと思い出したんですが、旦那はまだどこへ行くともおっしゃらなかったですね。いったいどこへおいでになるんです。」

彼は話の始めからそのことばかりを考えていたが、なぜかその問いを口にすることができなかった。

「その馬は前足は丈夫かね。」とマドレーヌ氏は言った。

「丈夫ですとも。下り坂には少しおさえてくださればよろしゅうございます。おいでになる所までは下り坂がたくさんあるんですか。」

「あすの朝四時半きっかりに門口まで忘れないように頼むよ。」とマドレーヌ氏は答えた。そして彼は出て行った。

フランドル人は、後に彼が自分でも言ったように、「まったく呆気にとられて」しまった。

市長が出て行って二、三分後、戸はまた開かれた。やはり市長だった。

彼はなお同じように、何かに思いふけっている落ち着いた様子だった。

「スコーフレール君、」と彼は言った、「君がわしに貸そうという馬と小馬車は、だいたいどれほどの価値に見積もるかね、馬車を引かせて。」

「馬に馬車を引かせるんですよ、旦那。」とフランドル人は大きく笑いながら言った。

「そうそう。それで?」

「旦那が買い取ってくださるのですか。」

「いや。ただ万一のために保証金を出しておくつもりだ。帰ってきたらその金を返してもらうさ。馬車と馬とをいくらに見積もるかね。」

「五百フランに、旦那。」

「それだけここに置いておくよ。」

マドレーヌ氏はテーブルの上に紙幣を置いて、それから出て行った。そして今度はもう戻ってこなかった。

スコーフレール親方は千フランと言わなかったことをひどく残念がった。馬と馬車とをいっしょにすれば百エキュー(訳者注 五百フランに当たる)のかちはあったのである。

フランドル人は家内を呼んで、そのできごとを話した。いったい市長はどこへ行くんだろう? 二人は相談し合った。「パリーへ行くんでしょうよ。」と家内は言った。「俺はそうは思わん。」と亭主は言った。ところが、マドレーヌ氏は暖炉の上に数字をしるした紙片を置き忘れていた。フランドル人はそれを取り上げて調べてみた。「五、六、八半、これは宿場にちがいない。」彼は家内の方に向いた。「わかったよ。」

「どうして?」

「ここからエダンまで五里、エダンからサン・ポルまで六里、サン・ポルからアラスまで八里半、市長はアラスへ行くんだ。」

そのうちにマドレーヌ氏は家に帰っていた。


スコーフレール親方の家から帰る途中、彼はまるで司祭邸の戸が何か誘惑するもののようで、それを避けるかのように回り道をした。それから彼は自分の室に上ってゆき、そして中に閉じこもった。彼はよく早く床につくことがあったので、それは特に怪しむべきことではなかった。けれども、マドレーヌ氏のただ一人の下婢であり、同時に工場の門番をしていた女は、彼の室の燈火が八時半に消されたのを見た。そして彼女はそのことを帰ってきた会計係の男に話し、なおつけ加えた。

「旦那様は病気ではないでしょうか。何だか様子が変わっていたようですが。」

この会計係の男は、マドレーヌ氏の室のちょうど真下の室に住んでいた。彼は門番の女の言葉を気にもかけず、床について眠った。夜中に彼は突然目をさました。夢現のうちに、彼は頭の上に物音を聞いた。彼は耳を澄ました。だれかが上の室を歩いているような行き来する足音だった。彼はなお注意して耳を澄ました。するとマドレーヌ氏の足音であることがわかった。それが彼には異様に思えた。マドレーヌ氏が起き上がる前にその室に音がすることは、平素なかったのである。

しばらくすると、彼は戸棚が開いてまた閉まるような音を聞いた。それから何か家具の動かされる音がして、そのままちょっとひっそりして、また足音が始まった。彼は寝床に身を起こした。すっかり目が覚めて、じっと目を据えると、窓越しにすぐ前の壁の上に、燈火のついたどこかの窓の赤い火影がさしているのを認めた。その光の方向をたどってみると、それはマドレーヌ氏の室の窓としか思えなかった。火影が揺れている様子から見ると、普通の燈火ではなく、燃えている火から来るもののように思えた。窓ガラスの枠の影がそこに写っていないことから考えると、窓はすっかり開かれているに違いなかった。その寒い晩に、窓が開かれているのは異常なことだった。が、彼はそのまままた眠ってしまった。一、二時間後に彼はまた目をさました。ゆるい規則的な足音が、やはり頭の上で行きつ戻りつしていた。

火影はなお壁の上にさしていた。しかしそれはもうランプか蝋燭の反映のように薄く穏やかになっていた。窓は相変わらず開かれていた。

ところで、マドレーヌ氏の室の中に起こったことは次のとおりである。

 

3.脳裏の暴風雨

読者は疑いもなくマドレーヌ氏はつまりジャン・ヴァルジャンにほかならぬことを察せられたであろう。私たちは前にこの人の内心の奥底をのぞいたことがあるが、更になおのぞくべき時がきた。が、それをなすには、私たちは深い感動と戦慄を自ら禁じ得ない。このような考察ほど恐ろしいものはない。人の心眼は人間のうちにおいて最も多く光輝と暗黒とを見いだす。またこれ以上恐るべき、複雑な、神秘な、無限なものは、何も見ることができない。海洋よりも壮大なる光景、それは天空である。天空よりも壮大なる光景、それは実に人の魂の内奥である。

人の内心の詩を作るには、たとえそれが一人の個人に関してであったとしても、世のあらゆる叙事詩を打って一丸となして一つのすぐれたる完全なる叙事詩になすを要するであろう。人の内心、そは空想と欲念と企画との混沌界であり、夢想の坩堝であり、恥ずべき諸もろもろの観念の巣窟である。そは詭弁の魔窟であり、情欲の戦場である。ある時を期して、考えに沈める一人の人の蒼白なる顔をとおし、その内部をのぞき、その魂を見つめ、その暗黒の中を覗いてみよ。そこにこそ外部の静穏の下に、ホメロスの描ける巨人の戦いがあり、ミルトンの語れる竜や九頭蛇だの混戦があり妖怪の群れがあり、ダンテの言える幻の渦がある。人が皆自己のうちに有し、それによって脳裏の意志と生涯の行動とを測って絶望するこの無際限は、いかに幽玄なるものぞ!

ダンテはかつて地獄の門に出会い、その前に躊躇した。ここにもまた私たちの前に、くぐるを躊躇せざるを得ない門がある。しかしてあえてそれをくぐってみよう。

あのプティー・ジェルヴェーの事件の後ジャン・ヴァルジャンにいかなる事が起こったかについては、読者の既に知っていること以外にあまり多くつけ加える要はない。その時以来、前に述べたとおり彼はまったく別人になった。司教が彼に望んだことを彼は実現した。それはもはや単なる変化にあらずして変容であった。

彼は首尾よく姿を隠し、記念として燭台のみを残して司教からもらった銀の器具を売り払い、街から街へと忍び行き、フランスを横ぎり、モントルイュ・スュール・メールにきて、前に述べたとおりのことを考えつき、前に物語ったとおりのことを仕とげ、押さえられ手をつけられることのないようになって、そして以来、モントルイュ・スュール・メールに居を定め、過去のために悲しみを抱え、後半生を夢のように感じて、心楽しく、平和と安心、そして希望を抱いて生活していた。そしてもう二つの考えしか持っていなかった。すなわち、己の名前を隠すことと、己の生を清めること、人生をのがれることと、神に帰ること。

その二つの考えは彼の心の内で密接に結びつき、ただ一つのものとなっていた。二つとも等しく彼の心を奪い彼を従え、その些細な行為をも支配していた。そして普通は両者一致して彼の世に処する道を規定し、彼を人生の悲惨なものの方へ向かわしめ、彼を親切で質朴にし、同じ助言を与えていた。けれども時としては両者の間に争いがあった。その場合には、読者の記憶するごとく、モントルイュ・スュール・メールのすべての人が呼んでもってマドレーヌ氏としたその人は、第一を第二のものの犠牲とし、自己の安全を自己の徳行の犠牲とすることに躊躇しなかった。こうして彼は、あらゆる控え目と用心とにもかかわらず、司教の二つの燭台を保存しておき、司教のために喪服をつけ、通りすがりのサヴォアの少年を呼んでは尋ね、ファヴロールにおける家族らのことを調べ、ジャヴェルの不安な諷諭をも顧みずして、フォーシュルヴァン老人の生命を救ったのである。前に述べたごとく、彼は賢人聖者または正しき人々にならって、己の第一の義務は自己に対するものではないと思っているらしかった。


しかしながら、こんどのようなことはいまだかつて彼に起こったことがなかったのである。私たちがここにその苦悩を述べつつあるこの不幸な人を支配していた二つの考えが、かくも激しく相争ったことはかつてなかったのである。ジャヴェルが書斎にはいってきて発した最初の言葉において、彼は早くも漠然と、しかし深くそれを感じた。地下深く埋めておいたあの名前が意外にも発せられた瞬間には、彼は唖然としておのれの運命の恐ろしくも不可思議なのに惘然としてしまったかのようだった。そしてその呆然たるうちに、動乱に先立つ一種の戦慄を感じた。暴風雨の前の樫の木のごとく、襲撃の前の兵士のごとく、彼は身をかがめた。迅雷と電光とのみなぎった黒影が頭上をおおうのを感じた。ジャヴェルの言葉を聞きながら彼には、そこにかけつけ、自ら名乗っていで、シャンマティユーを牢から出して自らそこにはいろうという考えが、第一に浮かんだ。それは肉体を生きながら刻むほどの苦しいたえ難いことであった。が次にそれは過ぎ去った。そして彼は自ら言った。「まてよ、まてよ!」彼はその最初の殊勝な考えをおさえつけ、その悲壮な行ないの前にたじろいだ。

もとより、あの司教の神聖なる言葉をきいた後、長い間の悔悛と克己との後、みごとにはじめられた贖罪の生活の最中に、かくも恐ろしき事情に直面しても少しも躊躇することなく、底には天国がうち開いているその深淵に向かって同じ歩調でもって進み続けたならば、それはいかにりっぱなことであったろう。しかしいかにりっぱなことであったろうとはいえ、そうはゆかなかったのである。私たちは彼の魂のうちにいかなることが遂げられつつあったかを明らかにしなければならない。そして私たちはその魂の中で起こっていたことだけを語ることができる。まず第一に彼を駆ったところのものは、自己保存の本能であった。彼はにわかに考えをまとめ、感情をおし静め、大危険物たるジャヴェルがそこにいることを考え、恐怖のためにすべての決心を延ばし、おのれの取るべき道に対する考察を捨て、戦士が楯を拾い上げるようにおのれの冷静を回復した。

その一日の残りを彼はそういう状態のうちに過ごした、内心の擾乱と外部の深い平静とをもって。いわゆる「大事を取る」ということをしか彼はしなかった。すべてはまだ脳裏に漠然と紛乱していた。何のまとまった観念も抱けないほど、その擾乱は激しかった。ただある大なる打撃を受けたということのほかは、彼自らも自分自身がわからなかったであろう。彼は普段通りファンティーヌの病床を見舞い、親切な本能からいつもより長くそこにとどまった。そして自分のなすべきことを考え、万一不在になる場合のために、彼女を修道女たちによく頼んでおかなければならないと思った。アラスへ行かなければなるまいとぼんやり感じた。が少しもその旅を心に決したのではなかった。実際のところ何らの疑念をも被るわけはないので、これからの裁判に列席しても何ら不都合はないとひそかに考えた。そしてあらゆる事変の準備を整えておくために、スコーフレールの馬車を約束した。

彼はかなりよく食事もした。

自分の室に帰って彼は考え込んだ。

彼は自分の立場を考え、それが異常であることを知った。あまりにも異常だったので、ほとんど名状し難いある不安な衝動に駆られて、黙想の最中にわかに椅子から立ち上がり、戸を閉ざし閂をさした。何かが更に入ってこないかを恐れた。何か起こるかも知れないことに対して身を護った。

間もなく彼は燈火を消した。それがわずらわしかったのである。

だれかが自分を見るかも知れないと彼は思ったらしい。


だれが? 人が?

悲しいかな、彼が室に入れまいとしたものは、既にはいってきていた。彼がその目を避けようとしたものは、既に彼を見つめていた。彼の本心、つまり彼の内なる神が。

けれども初めは、彼は自ら欺いていた。彼は安全と孤独を感じた。閂をして彼はもうだれにもつかまることがないと思った。蝋燭を消して彼はもうだれにも見られることがないと思った。そこで彼はほっと安心した。両肘をテーブルの上につき、掌に頭をささえ、暗やみの中で瞑想しはじめた。

「自分はいったいどこにいるのか。――夢を見ているのではないのか。――何を聞いたのか。――ジャヴェルに会って彼があんなことを言ったのは本当なのか。――そのシャンマティユーというのはいったいだれなのか。――では自分に似ているのか。――そんなことがあり得ようか。――昨日は自分はあれほど落ち着いていて何一つ夢にも知らなかったのに。――で昨日の今時分は何をしていたのであろう。――このできごとはいったいどういうのか。――終わりはどうなるのか。――どうしたらいいか。」

そういう苦悶のうちに彼はあった。彼の頭脳はいろいろの考えを引き止める力を失っていた。考えは波のように過ぎ去って行った。彼はそれを捕えようとして、両手のうちに額を押しあてた。

彼の意志と理性をくつがえしたその擾乱、彼がそのうちから一つの的確なものを引き出し、一つの決心を引き出そうとしたその擾乱、それからはただ心痛のほか何物も出てこなかった。

彼の頭は燃えるようだった。彼は窓のところへ行き、それを大きく開けた。空には星もなかった。彼は再びテーブルのところに戻って座った。

初めの一時間はかくして過ぎた。

そのうちしだいに漠然たる輪郭が瞑想のうちに浮かんできて一定の形を取るようになった。そして彼は自分の立場の全体ではないが、いくらかの局部を、現実の明確さをもってつかむことができた。

その立場はいかにも異常なものであり危急なものであるにしても、自分はまったくその主人公であることを、彼は認めはじめた。

彼の困惑はますます深まるばかりだった。


彼の行為の目ざしていた厳格な宗教的目的をほかにしては、彼が今日まで成し遂げたすべてのことは、自分の名を埋めるために掘る穴にほかならなかった。自ら顧みる時、眠れぬ夜半において、彼が最も恐れたところのものは、その名前が人の口から出るのを聞くことであった。その時こそ、自分にとってはすべての終わりであると思っていた。その名前が再び世に現れる時こそは、この新しい生涯も自分の周囲から消えてしまうだろう。またおそらくはこの新しい魂も自分のうちに消滅するであろうと。彼はそういうことがあるかも知れないと思っただけで身を震わした。

もしそういうおりに誰かが彼に向かって、やがて時が来るであろう、その名前が彼の耳に鳴り響き、その嫌悪すべきジャン・ヴァルジャンという名前が突然夜の暗黒から姿を現して彼の前につっ立ち、彼が身を包んでいる秘密の幕を消散させる恐るべき光が彼の頭上に突然輝くであろう、そしてまた、その名前はもはや彼を脅かさないであろう、その光はますますやみを濃くするのみであろう、引き裂かれた幕はなおいっそう秘密を増させるであろう、その地震はかえって建物を堅固にするであろう。その異常な出来事は、もし彼が望むならば、彼の存在を一層明らかにし、同時に不可測にする以外の結果はもたらさないだろう、そして、そのジャン・ヴァルジャンの幻と面を接することによって、立派な一市民たるマドレーヌ氏はいよいよ光栄と平和と尊敬とを得るに至るであろう――そう誰かが彼に向かって言ったとしても、彼は頭を振って、それらの言葉を狂人の戯言となしたであろう。しかしながら、それらのことがまさしく起こったのである。すべてそれらの不可能事と思われたことは事実となった。そして神は、それらの荒唐事が現実の事となるのを許したもうたのであった。

彼の妄想はますます明るくなってきた。彼は漸次に自分の立場を了解してきた。

彼は何かの眠りから目覚めたような気がした。そして、立ちながら、震えながら、いたずらに足をふみ止めようとしながら、暗黒の中に急坂を深淵の縁まですべり落ちてゆくような思いをした。彼はやみの中に、見知らぬ一人の男をはっきりと見た。運命はその男を彼と取り違えて、彼の代わりに深淵のうちにつき落とそうとしている。その淵が再び閉ざされるためには、誰かが、彼自身か、もしくはその男が、そこに陥らなければならなかった。

彼は成り行きに任せるしかなかった。

明るみは次第に満ちてきた。彼は次のことを自ら認めた。「徒刑場において自分の席はあいている。いかにつとめても、その空席は常に自分を待っている。プティー・ジェルヴェーからの盗みは自分をそこに連れ戻すのである。自分がそこに行くまでは、その空席は自分を待ち自分をひきつけるであろう。それは避くべからざる決定的なことである。」そして次にまた彼は自ら言った。「今自分は一人の代人を持っている。そのシャンマティユーという男は運が悪かったのだ。自分は以後、そのシャンマティユーという男において徒刑場にあり、またマドレーヌの名の下に社会にある。もはや何も恐るべきことはない。ただシャンマティユーの頭の上に、墓石のごとく一度落つれば再び永久に上げられることのないその汚辱の石がはめられるままにしておけばよいのだ。」

それらのことはいかにも荒々しく不可思議だったので、彼のうちに一種の名状すべからざる震えが突然起こった。それは何人も生涯中に二、三度とは経験することのないものであって、内心の一種の痙攣と言おうか、心のうちの疑わしいすべてのものを揺り動かし、皮肉と喜悦と絶望より成るものであって、心内の哄笑とも称し得べきものであった。

彼はまたにわかに蝋燭をともした。


「で、それがどうしたというのだ!」と彼は自ら言った。「自分は何を恐れているのか? 何をそんなに考えているのか? 私は助かったのだ。すべては済んだのだ。新しい自分の生涯に過去が闖入してくる口は、わずか開いている一つの扉だけだった。が、その扉も今や閉ざされてしまった。永久に! 長く私の心を乱していたあのジャヴェル、私の素性をかぎ出したらしい、いや実際かぎ出していたるところ私の後をつけていたあの恐るべき本能、始終私につきまとっていたあの恐ろしい猟犬、彼ももはや道に迷いほかに行ってしまって、まったく私の足跡を見失ったのだ。その後彼は満足している。私を落ち着かせるだろう。彼は彼のジャン・ヴァルジャンを捕えているのだ! 誰にわかるものか。彼さえもどうやらこの街を去りたがっている。そしてそれもみなひとりでにそうなったことで、私はそれに何の関わりもないのだ。そうだ、それに何の不幸な事があろう。おそらく私を見る者は、私に非常な災いが起こったと思うかもしれない。が、結局、誰かに災いがあるとしても、それは少しも私のせいではない。

すべては天の意志によってなされたのだ。明らかに神はそれを欲したからだ。神の定めることを乱す権利が私にあろうか。今、私は何を求めようとするのか。何に私は干渉しようとするのか。私に関係したことではないのだ。何、私は満足でないと! しからば何が私に必要なのか。長い年月望んでいた目的、夜半の夢想、天へ祈っていた目的物、安全、私は今それを得たのだ。それを欲するのは神である。私は神の意志に反しては何事もなすべきでない。そして神は何ゆえにそれを欲するのか? 私が初めたことを継続させんがため、私に善をなさせんがため、他日私をして偉大な奨励的実例となさんがため、私がなした悔悛と私が立ち戻った善行とにはついに多少の幸福が伴ったということを言い得んがためだ! 先ほど、あの善良な司祭のところに行って、聴罪師に向かってするように彼にすべてを語り、そして彼の助言を求めようとした時、何ゆえに私はそれを恐れたのか、実際自らわからない。彼はきっと私に同様なことを言ったはずだ。それは既に決定したことである。なるがままに任せるがいい。善良なる神の御手に任しておくがいい。」

彼は自らの深淵とも称すべきものの上に身をかがめ、本心からこう言った。彼は椅子から立ち上がり、室内を歩き始めた。「もうそれにこだわるまい。決心は定まっているのだ!」と彼は言った。しかし、彼は何の喜びも感じなかった。

いや、まったく反対であった。

人の思想がある観念の方へ立ち戻るのを止めることができないのは、あたかも海が浜辺に寄せ返すのを止めることができないのと同じである。船乗りにとってそれを潮という。罪人にとってはそれを悔恨という。神は海洋を持ち上げると同じくまた人の魂をも持ち上げる。

間もなく彼はまた、いかに自ら制しても暗澹たる対話を始めざるを得なかった。その対話においては、話す者も彼自身であり、聞く者も彼自身であり、語るところは彼が黙せんと欲していたことであり、聞くところは彼が聞くを欲しなかったことだった。二千年前の刑人( キリスト)に向かっては「進め!」と言ったごとく、今彼に向かっては「考えよ!」というある神秘なる力に、彼は駆られたのであった。

これ以上筆を進める前に、そしてすべてを十分明らかにせんがために、ここに一つの必要な注意をつけ加えておこう。


人間は確かに自分自身に向かって話しかけることがある。思考する生物たる人間にしてそれを経験しなかった者は一人もあるまい。言語なるものは、人の内部において思想より本心へ、本心より思想へと往復する時ほど、荘厳なる神秘さを帯びることはない。本章においてしばしば用いられる「彼は言った」または「彼は叫んだ」という言葉は、ただかかる意味においてのみ理解されなければならない。人は外部の沈黙を破らずして、自己のうちにおいて言い、語り、叫ぶものである。そこに非常な喧噪がある。口を除いてすべてのものがわれわれのうちにおいて語る。魂のうちの現実は、それが目に見るを得ず、手に触れることができないゆえをもって、現実でないという理由にはならない。

かくて彼は自分がどこにいるかを自ら尋ねた。彼はあの「既になされた決心」なるものについて自ら問いただした。頭のうちで自ら処置したものは奇妙なことであり、「なるがままに任せるがいい、善良なる神の御手に任しておくがいい」ということはただただ恐ろしいことであると、彼は自ら認めた。運命と人間の誤謬をそのまま遂げさせること、それを妨げず、沈黙によって助けること、結局何らの力をもいたさぬこと、それはすべて自ら手を下してなすのと同じではないか。それは陋劣なる偽善の最後の段階ではないか。それは賤しい卑怯な陰険な唾棄すべき、また嫌悪すべき罪悪ではないか!

八年ぶりに、不幸な彼は、悪念と悪事の苦い味を感じたのである。

彼は胸を悪くしてそれをまた吐き出した。

彼はなお続けて自ら問いかけた。「目的は達せられたのだ!」という言葉の意味を、自らきびしく尋ねてみた。自分の生活は果して一つの目的を持っていたということを彼は自ら公言した。しかしながら、それはいかなる目的であったか。名前を隠すことか。警察を欺くことか。彼がなしたすべてのことは、そんな小さなことのためだったのか。本当に偉大であり真実である他の目的を彼は持たなかったのか。自分の身をでなく自分の魂を救うこと。正直と善良とに立ち戻ること。正しき人となること! 彼が常に望んでいたことは、あの司教が彼に命じたことであり、特に、いや単に、そこにあったのではなかったか。「汝の過去に扉を閉ざせよ!」しかし彼はその扉を閉ざさなかった。卑劣なる行ないをしながらそれを再び開いた。彼は盗人、最も賤しい盗人に再びなろうとした。

他人からその存在と生活と平和と太陽に浴する地位とを奪おうとした。彼は殺害者となろうとした。一人のあわれなる男を殺そうとした、精神的に殺そうとした。その男にあの恐るべき生きながらの死を、徒刑場と称する大空の下の死を与えんとした。しかしこれに反して、身を投げ出し、その痛ましい誤謬に陥れられた男を救い、自分の名をあかし、義務として再び囚人ジャン・ヴァルジャンとなったならば、それこそ、真に自分の復活の道であり、のがれ出た地獄に永久に戸を閉ざす道ではなかったか! 外見上、その地獄に再び落ちることは、実際にはそこから脱することだった。それをなさなければならない!

 それをしなければ、何をもなさないのと同じである。彼の全生涯は無益なものとなり、彼のあらゆる悔悛は失われ、ただ「何の役に立とうぞ?」と言うのほかはなかったであろう。彼はあの司教がそこにいるように感じた。司教の姿は死んでますますはっきり目に見えてきた。司教は彼をじっと見つめていた。今後市長マドレーヌ氏は、そのいかなる徳をもってしても司教の目には忌むべきものと映ずるであろう。そして囚徒ジャン・ヴァルジャンは司教の前には尊敬すべき純潔なる姿となるであろう。世人は彼の仮面を見る、しかし司教は彼の素顔をながめる。世人は彼の生活を見るが、司教は彼の本心を見ている。

それゆえ、アラスへ行き、偽りのジャン・ヴァルジャンを救い、真のジャン・ヴァルジャンを告発しなければならない。ああそれこそ、最大の犠牲であり、最も痛切なる勝利であり、なすべき最後の一歩であった。それをなさなければならなかった。悲痛なる運命よ! 人の目には汚辱なるもののうちに戻る時、その時初めて彼は、神の目には聖なるもののうちにはいるであろう。


「よろしい、」と彼は言った、「これを決行しよう。義務を果そう。あの男を助けよう!」

彼は自ら気づかずにその言葉を声高に叫んだ。

彼は書類を取って、それを調べ、それを秩序よく並べた。困窮な小売商人らから取っていた借用証書の一束を火中に投じた。手紙を一つしたためて封をした。そのとき室にだれかいたならば、その人は、「パリー、アルトア街、銀行主ラフィット殿」という文字をその封筒の上に読み得たであろう。

彼は机から紙入れを取り出した。その中には紙幣や、その年彼が選挙に行くおりに使った通行券などが入っていた。

重大な考慮を巡らせながら彼がそれらの種々のことをやっているところを見た者があったとしても、その人は彼の心のうちに起こっていることを察することはできなかったであろう。彼はただ時々その唇が震えるのみであった。またある時は、頭をあげて壁の一点をじっと見つめていた。そこには彼が何か見極めまたは尋ねかけんと欲している物があるかのようだった。

ラフィット氏へあてた手紙を書き終えると、彼は紙入れとともにそれをポケットに入れ、そしてまた歩き始めた。

彼の瞑想は少しもその方向を変じていなかった。彼は光り輝く文字で書かれた自分の義務を明確に見ていた。その文字は彼の眼前で炎のように燃え、視線を移すごとに付き従った。「行け! 汝の名を名乗れ! 自首して出よ!」

彼はまた、これまで彼の生活の二つの規則となっていた二つの観念を、あたかもそれが目に見える形となって眼前に動き出したかのようにじっと見つめた。汝の名前を隠せ! 汝の魂を聖めよ! それらの二つは初めて全然別になって見えてきた。そしてその二つが互いにへだたっている距離を彼は見た。その一つは必ずや善きものであり、も一つは悪きものともなり得るものであることを、彼は認めた。一は献身であり、他は自己中心である。一は隣人を口にし、他は自己を口にする。一はミョウコウからきたり、他は暗黒から来ると。

その二つは互いに争っていた。彼はその二つが相争うのを見た。彼が黙想するに従って、その二つは彼の心眼の前に大きくなってゆき、今では巨人のごとき姿となっていた。そして彼自身のうちにおいて、先ほど述べたあの無限のうちにおいて、暗黒とみょうこうとの間に、神と巨人との争うのを彼は見るように思った。

彼は恐怖に満たされていたが、善の考えが勝利を収めるように思えた。

彼は新たに自分の本心と運命の決定的な時期に遭遇しているように感じた。司教は彼の新生涯の第一期を画し、あのシャンマティユーはその第二期を画しているように感じた。大危機の後に大試練がきたのである。

そのうちにまた一時しずまっていた熱はしだいに襲ってきた。無数の考えが彼の脳裏を過ぎた。しかしそれはただ彼の決心をますます強固にするのみだった。

ある瞬間には彼は自ら言った。「私はあまり事件を大袈裟に考えすぎているのかも知れない。結局そのシャンマティユーなる者は大した者ではない。要するに彼は盗みをしたのだ。」

彼は自ら答えた。「その男が果して林檎をいくらか盗んだとしても、一カ月の監禁くらいのものだ。徒刑場にはいるのとはずいぶん差がある。そして彼が盗んだということもわかったものではない。証拠があったのか。ジャン・ヴァルジャンという名前が落ちかかったので、証拠なんかはどうでもよくなったのであろう。いったい検事などという者はいつもそういうふうなやり方をするではないか。囚人だというので、盗人だと考えられたのだ。」

またある瞬間に彼はこうも考えた。自分が自首して出たならば、自分の勇壮な行為と、過去七年間の正直な生活と、この地方のために尽した功績とは、十分に考量されて許されることになるかも知れない。


しかしそういう想像はすぐに消え失せてしまった。そして彼は苦笑しながら考えた。プティー・ジェルヴェーから四十スーを盗んだことは、自分を再犯者となすものである。その事件も必ずや現れるであろう。そして法律の明文によって自分は終身懲役に処せられるであろう。

彼はついにすべての妄想を断ち切り、徐々に地上を離れ、他の場所に慰安と力を求めた。彼は自分に言った。自分は自己の義務を果たさなければならない。義務を避けた後よりも、義務を果たした後の方が、もっと不幸になることがあるだろうか。もし成り行きに任せ、モントルイユ・スュール・メールにとどまっているならば、自分の高い地位、自分の好評、自分の善業、人の推服、人の敬意、自分の慈善、自分の富、自分の高名、自分の徳、それらは皆罪悪に汚されるであろう。そしてそれらの潔き数々もこの忌むべき一事に関連するならば、何の滋味があろう。しかるに、もし自分が犠牲になり果たしたならば、徒刑場の柱と鉄鎖と緑の帽子と絶えざる労働と無慈悲な屈辱とにも、常に聖き考えを伴うことができるであろう。

最後に彼は再び自分に言った。すべては必然の数である。自分の運命はかく定められたものである。自分には天の定めを乱す力はない。自分はただいずれの場合においても、外に徳を装って内に汚れを蔵するか、もしくは内に聖きを抱いて外に汚辱を甘受するか、その一つを選ばなければならない。

かく雑多な沈痛な考えをめぐらしつつも、彼の勇気は少しも衰えなかった。しかし、彼の頭は疲れてきた。彼は我にもあらず、他の事を、まったく関係のない種々のことを、考え始めた。

こめかみの血管は激しく波打っていた。彼はなお室の中を歩き続けていた。会堂の時計がまず十二時を報じ、次に市役所の時計が鳴った。彼はその二つの大時計が十二打つ音を数えた。そしてその二つの鐘の音を比較してみた。その時彼は、ある金物屋で数日前に見た売り物の古い鐘の上に、ロマンヴィルのアントアーヌ・アルバンという名前が刻まれていたのを思い出した。

彼は寒気がした。そして少し火を焚いた。窓を閉めることには気がつかなかった。

そのうちに彼は再び昏迷の状態に陥っていた。十二時を打つ前に考えたことを思い出すのに、かなりの努力をしなければならなかった。ついにそれが思い出せた。

「ああそうだ、」と彼は自分に言った、「私は自首しようと決心したのであった。」

それから突然彼はファンティーヌのことを考えた。

「ところで、」と彼は言った、「あのかわいそうな女は!」

そこにまた新しい危機が現われた。


彼の瞑想のうちに突然現れたファンティーヌは、意外な一条の光のごときものであった。彼には自分の周りのすべてがその光景を変えたように感じられた。彼は叫んだ。

「ああ、私は今まで自分のことしか考えなかった。私は自分一個の都合ばかりしか考えなかったのだ! 沈黙すべきか、あるいは自首すべきか、自分の身の上を隠すか、あるいは自分の魂を救うか、賤いやしむべきしかし世人に尊敬される役人となるか、あるいは恥ずべきしかし尊むべき囚人となるか、それは私一個のこと、常に私一個のことであり、私一個のことにすぎない。しかしああ、それらすべては自己主義である。自己主義の種々の形ではあるが、とにかく自己主義たることは一つである。もし今少し他人のことを考えたならば! およそ第一の神聖は他人のことを考えることである。さあ少し考えてみなければいけない。自己を除外し、消し、忘れてしまったら、すべてはどうなるであろう?――もし私が自首して出たら? 人々は私を捕え、そのシャンマティユーを許し、私を徒刑場に送るであろう。それでよろしい。そして? ああ、ここには、一地方、一つの街、多くの工場、労働者、男、女、老人、子供、あわれな人々がいる。それらのものを私はこしらえた。私はそれらを生かしてやった。すべて煙の立ちのぼる煙筒のある所、その火のうちに薪まきを投じ、その鍋のうちに肉を入れてやったのは、私である。私は安楽さと流通、信用を築いてやった。私の来る前には何もなかったのだ。私はこの地方全体を引き上げ、活気づけ、にぎわいをもたらし、豊かにし、刺激を与え、富ませてやった。私がなければ魂がないようなものだ。私が取り去られれば、すべては死滅するであろう。――そして、あれほど苦しんだあの女、堕落のうちにもなおあれほどのいいものを持っているあの女、思いがけなく私がそのあらゆる不幸の原因となったあの女! そして、その母親に約束して自らさがしにゆくつもりであったあの子供! 私は自分のなした悪の償いとしてあの女に何か負うところはないのか。もし私がいなくなればどうなるであろう。母親は死ぬであろう。そして子供はどうなるかわからない。私が自首して出れば、結果はその通りになるだろう。――もし自首しないならば? まてよ、もし私が自首して出ないとするならば?」

自らそう問いかけた後に、彼はちょっと考えを止めた。彼はしばし躊躇と戦慄を感じたようだった。しかしそういう時間は長くは続かなかった。そして彼は静かに自ら答えた。

「ところであの男は徒刑場にゆく。それは事実だ。しかし仕方もない、彼は盗みをしたのだ。私がいくら彼は盗みをしなかったと言ってもむだである、彼は実際盗んだのだから。私はここにとどまっていよう。続けて働こう。十年のうちには千万の金をこしらえ、それをこの地方にふりまこう。少しも自分の身にはつけまい。身につけて何になろう。私がなすことはみな自分のためではないのだ。人々の繁栄は増すだろう。工業は盛んになり活気立ってくる。大小の工場は増加してくる。家は百となり千となり、また幸福になる。人民はふえる。田畑であった所には村ができ、荒地であった所には田畑ができる。貧困は後をたち、それとともに放逸や醜業や窃盗や殺害や、あらゆる不徳、あらゆる罪悪は、みな消え失せる。あのあわれな女も自分の子供を育てる。そしてこの地方全体が富み栄え正直になるのだ!

 ああ、実に私は愚かで間違っていた。自首して出るとは、まあ何ということを言ったのだろう。実際よく注意しなければいけない、何事もあわててはいけない。なに、偉大な高潔なことをなすのを好んだからというのか。結局それは一つのお芝居に過ぎないのだ。なぜなら私は自分のこと、自分だけのことしか考えなかったのだから。どこの奴ともわからない盗人を、明らかに賤いやしむべき一人の男を、多少重すぎはするがしかし実は正当である刑罰から救わんがために、一地方全部が破滅しなければならないというのか。一人のあわれな女が病舎で死に、一人のあわれな子供が路傍にたおれなければならないというのか、犬のように!

 

ああ、それこそ呪うべきことである。母親はその子供を再び見ることもなく、子供は自分の母親をほとんど知らないまま終わる。そしてそれもみな、林檎を盗んだあの老いぼれのためというのか。たしかにあいつだって、林檎のためでなくとも、何か他のことで徒刑場に入ってもいい奴だろう。一人の罪人を助けて、無実の多くの人を犠牲にすることは、徒刑場にいても自分の茅屋にいても、その不幸はあまり変わりはしない。またせいぜい四、五年とは生きてもすまい老いぼれの浮浪人を助けて、母親や妻や子供、すべての住民を犠牲にするとは、何という結構な配慮なのか。あの小さなあわれなコゼットは、世の中に助けとなるものは私だけしか持たない。そして今では、あのテナルディエの怪しい家で寒さのためにきっと青くなっているだろう。そこにもまた悪党がいる。

そして私はこれらのあわれな人々に対する自分の義務を欠こうとしている。自首して出ようとしていた。何という馬鹿なことをしようとしていたのか。まず悪い方から考えるとして、かくするのは自分にとって悪い行ないであると仮定し、他日私の本心はそれを私に非難すると仮定しても、自分だけにしか当たらないそれらの非難を、自分の魂だけにしかかかわらないその悪い行ないを、他人の幸福のために甘んじて受けること、そこに献身があり、そこに徳行があるではないか。

彼は立ち上がった、そして歩き始めた。今度は自ら満足であるような気がした。

金剛石は地下の暗黒のうちにしか見いだされぬ。真理は思想の奥底にしか見いだされぬ。その奥底に下がった後、その最も深い暗黒のうちを長く探り歩いた後、金剛石の一つを、真理の一つを、彼はついに見いだしたと思った。そしてそれをしかと手に握っていると思った。彼はそれを眺めて眩惑した。

「そうだ、そのとおりだ。」と彼は考えた。「これが本当のことだ。私は解決を得た。ついには何かにしかとつかまらなければいけない。私の決心は定まった。なるままに任せよう。もう迷うまい。もう退くまい。これはすべての人のためであって、自分一個の利害のためではない。私はマドレーヌである、またマドレーヌのままでいよう。ジャン・ヴァルジャンなる人は不幸なるかな! それはもはや私ではない。私はそんな人を知らない。私はもはやその正体を知らない。今だれかがジャン・ヴァルジャンになっているとするなら、その人自身で始末をつけるがいい。それは私の関係したことではない。それは実に暗夜のうちに漂っている不運の名である。もしそれがだれかの頭上にとどまり落ちかかったとすれば、その人の災難とあきらめるのほかはない。」

彼は暖炉の上にあった小さな鏡の中をのぞいた。そして言った。

「おや、決心がついたので私は安堵したのか! 私は今まったく生まれ変わったようになった。」

彼はさらに数歩歩き、ふいに立ち止まった。

「さあ、一度決心した以上はいかなる結果になろうとたじろいではいけない。」と彼は言った。「私をあのジャン・ヴァルジャンに結びつけるひもはなお残っている。それを断ち切らなければいけない。ここに、この室の中に、私を訴える品物が、証人となるべき無言の品物が、なお残っている。事は決した。すべてそれらのものをなくしてしまわなければいけない。」

彼はポケットを探って、紙入れを取り出し、それを開いて、中から小さな一つの鍵を引き出した。


彼はその鍵をある錠前の中に差し入れた。その錠前は、壁にはられている壁紙の模様の最も暗い色どりの中に隠されていて、ちょっと見てもその鍵穴は見えないくらいだった。がそこに、隠し場所が、壁の角と暖炉棚との間にこしらえられた一種の戸棚のようなものがあいた。中にはただ少しのつまらぬ物が入っていた。青い麻の仕事着と、古いズボン、古い背嚢、両端に鉄のはめてある大きな刺々とげとげの棒が。一八一五年十月にディーニュを通って行った頃のジャン・ヴァルジャンを見た人はその惨みじめな服装の品々をよく見覚えているであろう。

彼は自分の出発点を常に忘れないために、銀の燭台をしまっておいたと同じようにそれらをしまっておいたのである。ただ彼は徒刑場から来たそれらのものを隠し、司教から来た燭台を出しておいた。

彼はちらりと扉の方を見やった。閂で閉ざしておいたのがなお開きはしないかと恐れるかのように。それからにわかに急に身を動かして、長い年月の間危険を冒して大事にしまっておいたそれらのものを、目もくれず一かかえに手につかんで、火中に投じてしまった。ぼろの着物、棒、背嚢、すべてを。

彼はその戸棚のようなものを再び閉ざし、中は空であるのに以前の倍の無駄な注意を払って、大きな家具をその前に押しやって戸口を隠した。

やがて室の中と正面の壁とは、まっかなゆらめく大きな火影で照らされた。すべてのものが燃え出したのである。刺々とげとげの棒は音を立てて室の真ん中まで火花を飛ばした。

背嚢はその中に入っているきたないぼろとともに燃えつくして、灰の中に何か光っているものを残した。身をかがめて見ればそれが銀貨であることは容易にわかったであろう。いうまでもなく、サヴォアの少年から奪った四十スーの銀貨であった。

彼は火の方を見ずに、やはり同じ歩調で歩き回っていた。

突然彼の目は、火影を受けてぼんやり暖炉の上で光っている二つの銀の燭台に止まった。

「やあ、ジャン・ヴァルジャンの全身がまだあの中にある。」と彼は考えた。「あれをもこわさなければいけない。」

彼は二つの燭台を取った。

火はまだ十分おこっていて、その燭台をすぐに溶して訳のわからぬ地金とするには足りるほどだった。

彼は炉の上に身をかがめ、少しその温もりに身を委ねた。まったくいい心地であった。「ああ、結構な暖かみだ!」と彼は言った。

彼は燭台の一つで火をかきまわした。

もう一瞬間で、二つの燭台は火の中に入れられるところだった。

その時、彼は内部から呼ぶ声を聞いたような気がした。

ジャン・ヴァルジャン! ジャン・ヴァルジャン!」

髪の毛は逆立って、彼は何か恐ろしいことを聞いている人のようになった。

「そうだ、そのとおりにやってしまえ!」とその声は言った。「やりかけたことを果たせ。その二つの燭台をこわせ。その記念物をなくしろ。司教を忘れよ。すべてを忘れよ。あのシャンマティユーをも滅ぼせ。さあそれでよし。自ら祝うがいい。それでみな定まり、決定し、済んだのだ。そこに一人の男が、一人の老人がいる。人からどうされようとしているかを自分でも知らない。おそらく何もしたのではなく罪ない男かも知れない。汝の名前がすべての不幸をきたさしたのだ。彼の上に汝の名前が罪悪のようにのしかかっている。汝とまちがえられ、刑に処せられ、卑賤と醜悪とのうちに余生を終わろうとしている! それでよし。汝は正直な人間となっておれ。市長のままでおり、尊敬すべきまた尊敬せられた人としてとどまり、街を富まし、貧者を養い、孤児を育て、幸福に有徳に人に称賛されて日を過ごせ。そしてその間に、汝がここで喜悦とこうみょうとのうちにある間に、一方には、汝の赤い獄衣をつけ、汚辱のうちに汝の名をにない、徒刑場の中で汝の鎖を引きずっている者がいるだろう。そうだ、うまくでき上がったものだ。惨みじめなる奴!」


彼は額から汗が流れた。荒々しい目つきを二つの燭台の上に据え、その間にも彼の内で語る声はやまなかった。声は続けて言った。

ジャン・ヴァルジャン! あなたの周囲には多くの声があって、大きな響きを立て、大声で語り、あなたを称賛するでしょう。しかしまた、誰にも聞こえぬ一つの声があり、暗黒の中であなたをのろうでしょう。いいか、よく聞くがよい、恥知らずめ! すべての祝福は天に達する前に落ち、神のもとへ昇るのはただ一つののろいだけなのだ!」

その声は、初めはきわめて弱く、彼の本心の最も薄暗い隅から起こってきたが、次第に激しく恐ろしさを増し、今では彼の耳に明確に響いてきた。そして、その声が彼の内から外に出て、外部から話しかけているように思えてきた。彼はその最後の言葉を非常にはっきり聞いた気がして、一種の恐怖を感じて部屋の中を見回した。

「誰かいるのか。」と彼は自ら惑いながら、大声で尋ねた。

それから彼は白痴に似た笑いを立てた。

「ばかな! 誰もいるはずがない。」

しかし、そこには誰かがいたのである。ただ、それは人の目には見えない者であった。

彼は二つの燭台を暖炉の上に置いた。そして再び単調で沈んだ歩調で歩き出した。それが、下の部屋に眠っていた会計係の男の夢を妨げ、突然その眠りをさましたのだった。

その歩行は彼をやわらげ、同時に彼を熱狂させた。時に、危急の際には人はあちこちで出会うすべてのものに助言を求めるため、方々動き回るものらしい。さて、しばらくすると、彼はもはや自分自身がわからなくなってしまった。

彼は今、次々に取った二つの決心の前に、いずれも同じ恐怖を抱いてたじろいだ。彼に助言を与えた二つの観念は、いずれも同じく凶悪に思えた。――あのシャンマティユーが彼と間違って捕えられたことは、いかなる宿命であろう、いかなるめぐり合わせであろう! 天が最初は彼を安全にせんがために用いたように見えるその方法によって、かえって急迫せられるとは!

彼はまた、ある瞬間には未来を考えることもあった。ああ、自首して自らを引き渡すとは! 別れなければならないもの、再び取らなければならないもの、そのすべてを彼は無限の絶望で見守った。これほど善良で潔く、光輝ある生涯にも、人々の尊敬や名誉や自由にも、別れを告げなければならないだろう。もはや野を歩き回ることもないだろう。五月にさえずる鳥の声を聞くこともないだろう。子供たちに物を与えることもないだろう。自分の方に向けられた感謝と愛情のやさしい目つきも感じることはないだろう。自ら建てたこの家、この部屋、この小さな室にも別れなければならない。彼はその時、あらゆるものに心ひかれる思いをした。もはやこれらの書物を読むこともなく、この白木の小さな机の上で書き物をすることもないだろう。一人の召使いである門番の老婆も、もはや朝のコーヒーを持ってきてくれることがないだろう。ああ、それらのものの代わりに、徒刑囚、首枷、赤い上衣、足の鎖、疲労、監房、組み立て寝台、その他覚えのあるあらゆる恐ろしいもの! 

しかもこの年になって、かほどの者となった後に! まだ若いのだったら! ああ、この老年におよんで、誰からも貴様と呼び捨てにされ、牢番に身体をあらためられ、看守の棍棒をくらわされ、靴もなく鉄鋲の靴をはき、鉄輪を検査する番人の金槌の下に朝晩足を差し出し、外から来た見物人には、「あれがモントルイユ・スュール・メールの市長であった有名なジャン・ヴァルジャンです。」と言われて、その好奇な視線を受けるのか。晩には、汗まみれになり疲れ果て、緑の帽子を目深にかぶり、監視の者の笞の下に、海に浮かんだ徒刑場の梯子段を二人ずつ上っていくのだ。おお、何という惨めなことだろう! 運命というものも、知力ある人間のごとくに悪意を抱き、人間の心のごとくに凶猛になり得るものであろうか。

そしていかに考えをめぐらしても、常にまた、瞑想の底にある痛切なジレンマに落ちてゆくのであった。「天国のうちにとどまって悪魔となるか! あるいは、地獄に下って天使となるか!」

どうしたらいいか、ああ、いかにしたらばいいのか?


ようやく彼が脱した苦悩は、また彼の内に荒れてきた。種々の観念は互いに混乱し始め、その観念は絶望の特質たる一種の呆然たる機械的な働きを取ってきた。あのロマンヴィルという名前が、昔耳にしたことのある小唄の二句とともに、絶えず彼の頭に浮かんできた。ロマンヴィルというのは、パリの近くの小さな森で、若い恋人たちが四月にライラックの花を摘みに行く場所だと、彼は思っていた。

彼は内部でも外部でもよろめいていた。一人でようやく歩くことを許された小児のような歩き方をしていた。

時折彼は疲労と戦い、自分の知力を回復しようと努力した。疲憊の極にまたふと探り当てたその問題を、最後に今一度決定的に解決してみようと努めた。自首すべきか? 黙しているべきか?――彼は何物をも明瞭に認めることができなかった。瞑想によって描き出されたあらゆる理論の漠然たる姿は、すぐに揺らめいて、煙のように次から次へと消え去った。彼はただこう感じるのみだった。必然に、そしてやむを得ずにいずれかの決心を取る時に、自分の内の何物かは死滅するであろう。右を行っても左を行っても、自分は一つの墓場の中にはいるであろう。自分の幸福か、もしくは自分の徳操か、いずれかを臨終の苦しみへ送らなければならないであろう。

悲しいかな、あらゆる不決断はまた彼を襲った。彼はまだその初めから一歩も踏み出してはいなかった。

かくてこの不幸なる魂は、苦悩の中でもだえていたのである。この不運な人から千八百年前に、人類のすべての至聖とすべての苦難を一身に具現していた神秘なる人(訳者注:キリスト)、彼もまた無限の残忍なる風に橄欖の木立ちが震えるころ、星をちりばめた大空の中に、影をしたたらせ、暗黒にあふれている恐るべき杯が前に現れたとき、それを手に取って飲み干すことができなかったこともあるではないか。

 

4.睡眠中に現われた苦悶の象

午前の三時が鳴った。彼はほとんど休みなく五時間、室の中を歩き回っていた。そして初めて、彼は椅子の上に身を落とした。彼はそこに居眠って、夢を見た。

多くの夢がそうであるように、この夢も、何ともいえぬ不吉で悲痛なものであった。しかしそれは彼に深い印象を与えた。彼はその悪夢にひどく心を打たれ、後にそれを書き止めた。次のものは、彼が自ら書いて残しておいた記録の一つである。われわれはただそれを原文どおりに、ここに再録すべきであろう。

その夢がたとえどのようなものであったとしても、それを省けば、その夜の物語は不完全である。実に、それは病める魂の暗澹たる彷徨である。

記録は次のとおりである。表題には「その夜予の見たる夢」という一行が書かれている。

私は、平野の中にいた。一本の草もない広い寂しい平野であった。昼であるか夜であるか、私にはわからなかった。私は、自分の兄弟と一緒に歩いていた。それは私の子供の頃の兄弟であった。そしてここに言っておかなければならないことは、私はその後彼のことを考えたこともなければ、もはやほとんど覚えてもいなかったのである。

私たちは、話し合っていた。そしてまた、いろいろな通行人に出会った。私たちは、昔隣家に住んでいた女のことを話していた。その女は、街に面して住み始めてから、いつも窓を開けて仕事をしていた。話をしながらも、私たちはその開かれた窓のために寒さを感じていた。

平野の中には一本の樹木もなかった。私たちは、すぐそばを通ってゆく一人の男を見た。その男はまっ裸で、灰色をして、土色の馬に乗っていた。頭には毛がなく、頭蓋骨が見えており、その上には血管が見えていた。手には、ぶどう蔓のようにしなやかで鉄のように重い鞭を持っていた。その騎馬の男は、私たちのそばを通り過ぎたが、何も言わなかった。

私の兄弟は言った。「くぼんだ道を行こうじゃないか。」一本の灌木もなく、一片の苔もないくぼんだ道があった。あらゆるものが、空までも土色をしていた。しばらく行くと、私の言葉にはもう返事がなかった。私は、兄弟がいないことに気づいた。

私は、向こうに見える一つの村にはいった。私は、それがロマンヴィルに違いないと思った。(なぜロマンヴィルなのか?)(この注句はジャン・ヴァルジャンの自筆である。)

私がはいって行った第一の街路には、誰もいなかった。私は第二の街路にはいった。二つの街路が角をなす後ろの方に、一人の男が壁にもたれて立っていた。私はその男に尋ねた。「ここは何という所ですか。私が今いるのはどこでしょう?」男は答えなかった。私は、ある家の戸が開いているのを見て、その中にはいって行った。

第一の室には、誰もいなかった。私は第二の室にはいった。その室の扉の後ろに、一人の男が壁にもたれて立っていた。私はその男に尋ねた。「これは誰の家ですか。私が今いるのはどこでしょう?」男は答えなかった。その家には庭があった。

私は家を出て庭にはいった。庭には誰もいなかったが、第一の樹木の後ろに、一人の男が立っているのを見た。私はその男に言った。「この庭は何という所ですか。私が今いるのはどこでしょう?」男は答えなかった。


私はその村の中を歩いた。そしてそれが一つの街であることに気づいた。どの街路にも、誰もいなかった。どの家の戸も皆開かれていた。生きている者は一人もおらず、街路を通る者も、室の中を歩いている者も、庭を散歩している者もいなかった。けれども、壁の角の後ろや、扉の後ろや、樹木の後ろには、いつも黙って立っている男がいた。そして一度にただ一人いるきりであった。それらの男たちは私が通ってゆくのをじっと見ていた。

私はその街から出て、野を歩き始めた。しばらくして振り返ってみると、私の後ろから大勢の人がついてきていた。その人たちは皆、私が街で見た男たちであることがわかった。彼らは不思議な顔をしていた。彼らは別に急いでいるとも見えなかったが、私より早く歩いていた。歩きながら少しの音も立てなかった。すぐにその人たちは私に追いついて、私を取り囲んだ。彼らの顔は皆土色をしていた。

その時、街に入って最初に出会ったあの男が、私に言った。「君はどこへ行くんですか。君はもう長い前から死んでいるということを知らないのですか。」

私は返事をするために口を開いた。すると、自分のまわりには誰もいないのに気がついた。

彼は目を覚ました。氷のように冷たくなっていた。明け方のように冷たい風が、開け放した窓の扉を揺すっていた。暖炉の火は消えていた。蝋燭も燃え尽きようとしていた。そしてまだ暗い夜であった。

彼は立ち上がり、窓の所へ行った。空にはやはり星もなかった。窓から家の中庭や街路が見られた。鋭い硬い物音が突然地上に響いたので、彼はそちらに目をやった。

彼は下の方に、二つの赤い星を見つけた。その光はやみの中に不思議に延びたり縮んだりしていた。彼の頭はなお夢想の霧のうちに半ば沈んでいた。彼は考えた。「おや、空には星は一つもないが、かえって地上に星がある。」

そのうち彼の頭の靄も消え失せ、初めのと同じような第二の物音は、彼をすっかりさましてしまった。彼は見つめた。そしてその二つの星は馬車の角燈であることがわかった。その角燈の光で彼は馬車の形をはっきり見て取ることができた。小さな白馬に引かれた小馬車であった。彼が聞いた物音は、舗石の上の馬の蹄の音だった。

「あの馬車は何だろう。」と彼は自ら言った。「いったい誰がこんなに早く来たんだろう。」

その時、室の戸が軽くたたかれた。彼は頭から足の先まで震え上がり、そして恐ろしい声で叫んだ。


「だれだ?」

誰かが答えた。

「私でございますよ、旦那様。」

彼は、その声が門番の婆さんであることを理解した。

「そして、何の用ですか。」と彼は言った。

「旦那様、もう朝の五時になりますよ。」

「それがどうしたんだ?」

「馬車が参りましたのです。」

「何の馬車が?」

「小馬車でございます。」

「どういう小馬車だ?」

「小馬車をお言いつけになったのではございませんか。」

「いいや。」と彼は言った。

「御者は旦那様のところへ参ったのだと申しておりますが。」

「何という御者だ。」

「スコーフレールさんの家の御者でございます。」

「スコーフレール?」

その名前に、あたかも電光の一閃で顔をかすめられたように彼は身を震わした。

「ああそうだ!」と彼は言った。「スコーフレール。」

もし婆さんがその時の彼を見ることができたら、きっとおびえてしまったであろう。

しばらくの間、沈黙が続いた。彼は呆然と蝋燭の炎を見つめながら、その芯の周りから熱い蝋を取って指先で丸めていた。婆さんは待っていた。しかし、彼女は今一度声を高くして言ってみた。

「旦那様、どう申したらよろしゅうございましょう。」

「よろしい、今行く、と言ってくれ。」

 

5.故障

モントルイュ・スュール・メールとアラスとの間の郵便事務は、当時なお帝政時代の小さな郵便馬車でなされていた。それは二輪の車で、内部は茶褐色の皮で張られ、下には組み合わせバネがついている。ただ郵便夫と旅客の二つの席があるだけだった。車輪には、今日なおドイツの田舎にあるような、他の車を遠くによけさせる恐ろしい長い轂がついていた。郵便箱は大きな長方形で、馬車の後ろに取り付けられ、それと一体になっていた。その郵便箱の方は黒く塗られ、馬車は黄色に塗られていた。

今日ではもうそれに似寄ったものもないほどのその馬車は、何とも言えない不格好で、体裁の悪いものであった。遠く地平線の道を通っていくのを見ると、たぶん白蟻という名の、小さな胴を持ち、大きな尻を引きずる虫に似ていた。ただ速力はきわめて早かった。パリーからの郵便馬車が通った後、毎夜一時にアラスを出て、モントルイュ・スュール・メールに朝の五時少し前に到着するのだった。

さてその夜、エダンを通ってモントルイュ・スュール・メールへやってきた郵便馬車が、街に入ろうとする時そこの町角で、反対の方向へゆく白馬にひかれた一つの小馬車につき当たった。中には一人の男がマントに身をくるんで乗っていた。小馬車の車輪はかなり強い打撃を受けた。郵便夫はその男に止まるよう声をかけたが、男は耳をかさないで、やはり馬を走らせて去って行った。

「馬鹿に急いでやがるな!」と郵便夫は言った。

かく急いでいた男は、まったくあわれむべき煩悶の中にもがいていたあの人にほかならなかった。

どこへ行こうとするのか? 彼自身もそれを言えなかったであろう。なぜそんなに急ぐのか? 彼自ら知らなかった。彼はむやみと前へ進んで行ったのである。いずこへ? もちろんアラスへではあったが、しかしまたおそらく他の所へも行きつつあったのである。時折彼はそれを感じ、身を震わせた。

彼はあたかも深淵に身を投じるかのように、暗夜の中を進んでいった。何かが彼を押し進め、何かが彼を引っ張っていた。彼のうちに起こっていることは、だれもそれを語り得ないであろう。しかしやがてだれにもわかることである。生涯中少なくとも一度はこの不可解な暗い洞窟にはいらない者は、おそらくないであろう。

要するに彼は、何も決心せず、何も決定せず、何も確定せず、何もなさなかったのだった。彼の本心の働きには何も決定的なものはなかったのである。彼は初めから一歩も出てはいなかった。

なぜ彼はアラスへ行こうとしたのか?


彼はスコーフレールの馬車を借りながら、自ら言ったことを繰り返していた。「どんな結果をもたらそうと、その事件を自らの目で見、自ら判断するのに、不都合はあるまい。――いや、それはかえって用心深いやり方だ。どんなことになるか知らなければいけないのだ。――自分で観察し探査しなければ、何も決定することはできないものだ。――遠くから見ると、何事も大袈裟に見えるものだ。ともかくも、どんな賤しい奴か、そのシャンマティユーを見たならば、自分の代わりにその男が徒刑場にやられても、自分の心はおそらくそう痛みはしないだろう。――なるほど、そこにはジャヴェルと、自分を知っている古い囚徒のブルヴェー、シュニルディユー、コシュパイユがいるだろう。しかし確かに彼らは自分を看破することはできまい。――ああ、なんてくだらないことを考えているんだ!――ジャヴェルの方はもう大丈夫だ。――それに、あらゆる推測と仮定はそのシャンマティユーの上に立てられている。そして推測と仮定ほど頑固なものはない。――で、そこへ行っても何らの危険もないわけだ。」

「もちろん、それは喜ばしいことではない。しかし自分はすぐにそれから脱することができよう。――結局、自分の運命はいかに悪かろうと、自分はそれを自分の掌中に握っている。――自分は今、自分の運命の主人公だ。」

彼はそういう考えに固執していた。うち明けて言えば、心の底ではアラスへ行かない方を彼は望んだであろう。けれども、彼はやはりそこへ行こうとしたのである。

考えにふけりながら、彼は馬に鞭を入れた。馬は一時間に二里半の速度で、正確に進んでいた。馬車が進むに従って、彼は自分の内にあるものが後退していくのを感じた。

明方、彼は平野に出ていた。モントルイュ・スュール・メールの街は後方はるかになっていた。彼は白みゆく地平線を見つめた。冬の夜明けに冷ややかな物の姿が目の前を通り過ぎるのを、目には見えず、心で見つめていた。朝にも夕のごとく、その幻影がある。彼はそれらを目では見なかったが、しかし彼の知らぬまにほとんど肉体を通して、樹木や丘陵のその黒い映像は、彼の激越な魂の状態に何か陰鬱な悲痛なものを加えさせた。

所々に往来の傍方に立っている一軒家の前を通るごとに、彼は自ら言った。「あの中に安らかに眠っている人もある!」

馬の足並みや馬具の鈴や路上の車輪は、静かな単調な音を立てていた。それらのものは、心が喜びに満ちている時には快いものであり、悲しみに沈む時には陰鬱なものである。

エダンに着いた時は、もうすっかり夜が明けきっていた。彼は馬に息をつかせ麦を与えるために、ある宿屋の前に馬を止めた。馬はスコーフレールの言ったとおり、ブーロンネー産の小さな奴で、その特質として、頭と腹とが大きく、首が短く、しかも胸が開き臀が大きく、脚はやせて細く、蹄は丈夫であった。姿はよくなかったが、頑丈で強健だった。二時間に五里走って、背に一滴の汗も流していなかった。

彼は馬車からおりなかった。ところが麦を持ってきた馬丁は急に身をかがめて、左の車輪を調べた。「これでまだ遠方までいらっしゃるかね。」とその男は言った。彼はまだほとんど自分の瞑想のうちに沈んだまま答えた。


「なぜ?」
「遠くからいらっしゃったのかね。」と馬丁はまた言った。
「五里向こうから。」
「へえー。」
「へえーってどういうわけだ。」
馬丁はまた身をかがめて、しばらく黙ったまま車輪を見ていたが、それから身を起こして言った。
「だけど、これで五里の道を来たことはできたが、これからは半里も行けませんよ。」
彼は馬車から飛びおりた。
「何だって?」
「なあに、旦那も馬もよくまあ往来の溝にもころげ込まねえで、五里もこられたなあ、不思議だ。まあ見てごらんなさるがいい。」
なるほど車輪はひどくいたんでいた。郵便馬車との衝突のために、車輪の輻やが二本折れ、轂こしきがゆがんで螺旋ねじがきいていなかった。
「おい、この近くに車大工はいないか。」と彼は馬丁に言った。
「ありますとも。」
「連れてきてもらえまいかね。」
「すぐ向こうにおるですよ。おーい。ブールガイヤール親方!」
車大工のブールガイヤール親方は、戸口の所に立っていた。彼はやってきて車輪を調べたが、外科医が折れた足を診みる時のように顔をしかめた。
「すぐにこの車輪を直してもらえるかな。」
「ええ旦那。」
「いつ頃また出かけられるだろうね。」
「明日ですね。」
「明日!」
「十分、一日は手間がかかりますよ。旦那は急ぐんですか。」
「大変急ぐんだ。遅くも一時間したらまた出かけなくちゃならないんだ。」
「それはダメですよ、旦那。」
「いくらでもお金は出すけれど。」
「だめです。」
「では、二時間したら?」
「今日中はだめです。二本の輻やと轂こしきとを直さなきゃあなりません。明日までは出かけられませんぜ。」
「明日までは待てない用なんだ。ではこの車輪を直さないで外のと取り換えたらどうだろう。」
「そんなこたあ……。」
「君は車大工だろう。」
「そうには違いねえんですが。」
「わしに売ってもいい車輪があるだろう。そうすればすぐに発たてるんだ。」
「余りの車輪ですか。」
「そうだ。」
「旦那の馬車に合うような車輪はありません。二つずつ対になっていますからな。車輪をいい加減に二つ合わせようったってうまくいくもんじゃありません。」
「それなら、一対売ってくれればいいだろう。」
「旦那、どの車輪でも同じ心棒に合うもんじゃありません。」
「が、まあやってみてくれないか。」
「むだですよ、旦那。私ん所には荷車の車輪きり売るなあありません。なんにしてもここは田舎のことですからな。」
「ではわしに貸してくれる馬車はないかね。」
親方は彼の馬車が貸し馬車なのを一目で見て取っていた。そして肩をそびやかした。
「貸し馬車をそんなに乱暴にされちゃあ! 私んところにあったにしろ旦那には貸せませんな。」
「では売ってくれないか。」
「無ねえんですよ。」
「なに、一つもない? わしはどんなんでも構わないんだが。」
「なにしろごく田舎のことですからな。ただ一つ貸していいのがあるにはあるですが。」と車大工はつけ加えた。「古い大馬車で、街の旦那なんです。私が預かっているけれど、めったに使ったことはありません。貸してもいいですよ。なにかまやしません。ただ旦那に見つからねえようにしないと。それに大馬車だから、馬が二頭必要なんですが。」
「駅の馬を借りることにしよう。」
「旦那はいったいどこへ行くんですかね。」
「アラスへ。」
「そして今日向こうに着きたいというんですな。」
「もちろんだ。」
「駅の馬で?」
「行けないことはなかろう。」
「旦那は明日の朝の四時に向こうに着くんじゃいけませんか。」
「いけないんだ。」
「ちょっと申しておきますがね、駅の馬で……。いったい旦那には通行券はあるんでしょうか。」
「ある。」


「では、駅の馬で、それでも明日しかアラスには着けません。」
「ここは横道になっているんです。それで駅次馬は少ししかいないし、馬はみな野良に出ています。ちょうどこれから犂を入れる時だから馬がいるんです。どこの馬も、駅のもなにもかも、そっちに持ってゆかれているんです。一頭の駅次馬を手に入れるには、三、四時間は待たなければならないでしょう。それに、駆けさせられません。上り坂も多いですからな。」
「それでは、わしは乗馬で行こう。馬車をはずしてくれ。この辺に鞍を売ってくれる所はあるだろう。」
「そりゃああります。だがこの馬に鞍が置けますかね。」
「なるほど。そうだった。この馬はだめだ。」
「そこで……。」
「なに村で一頭くらい借りるのがあるだろう。」
「アラスまで乗り通せる馬はありますか。」
「そうだ。」
「この辺にあるような馬じゃだめです。第一に、旦那を知っている者はいないから、買ってもらわなければ無理です。ですが、売るのも貸すのも、五百フラン出したところで千フラン出したところで、見つかりゃあしませんぜ。」
「いったいどうしたらいいんだ。」
「まあ一番いいのは、私に車を直させて、明日出立なさるのですな。」
「明日では遅くなってしまうんだ。」
「そうか!」
「アラスへ行く郵便馬車はないのか。いつここを通るんだ。」
「今晩です。上りも下りも両方とも夜に通るんです。」
「どうしてもこの車を直すには一日かかるのか。」
「一日かかりますとも、十分。」
「二人がかりでやったら?」
「十人がかりでも同じさ。」
「繩で輻を縛ったら?」
「輻はそれでいいでしょうが、轂はそうはいきません。その上、たがもいたんでいます。」
「街に貸し馬車屋はいないのか。」
「いません。」
「ほかに車大工はいないのか。」
馬丁と親方とは頭を振って同時に答えた。
「いません。」
彼は非常な喜びを感じた。それについて天意が働いていることは明らかであった。馬車の車輪を壊し、途中に彼を止めたのは、天意である。しかも彼はその最初の勧告とでもいうべきものにすぐ降伏したのではなかった。あらゆる努力をして旅を続けようとした。誠実に細心にあらゆる手段を尽くしてみた。寒い季節をも疲労をも入費をも、意に介しなかった。彼はもはや何ら自ら責むべきところを持ってはいなかった。これ以上進まないとしても、それはもはや彼の責任ではなかった。それはもはや彼の罪ではなかった。彼の本心の働きではなく、実に天意のしからしむるところであった。


彼は息をついた。ジャヴェルの訪問いらい初めて、自由に胸いっぱいに息をした。二十時間の間、心臓を締めつけていた鉄の手が緩んできたような思いがした。
今や神は彼の味方をし、啓示をたれたもうたように、彼には思えた。

すべてでき得る限りのことはなしたのだ、そして今ではただ静かに足を返すのほかはない、と彼は自ら言った。
もし彼と車大工との会話が宿屋の室の中でなされたのであったら、そこに立会った者もなく、それを聞いた者もなく、事はそのままになっただろう。そしておそらく、われわれがこれから読者に物語らんとするできごとも起こらなかったろう。しかしその会話は往来でなされたのだった。往来の立ち話は、いつも必ず群集をそのまわりに集めるものである。外から物事を見物するのを好む者は常に絶えない。彼が車大工にいろいろ尋ねている間に、行き来の人たちが二人のまわりに立ち止まった。そのうちの人の気にもとまらぬ一人の小さな小僧が、しばらくその話をきいた後、群集を離れて向こうに駆けて行った。

旅客が前述のように内心で考慮をめぐらした後、道を引き返そうと決心したちょうどその時に、その子供は戻ってきた。彼は一人の婆さんを伴っていた。
「旦那、」と婆さんは言った、「倅が申しますには、旦那は馬車を借りたいそうでございますね。」
子供が連れてきたその婆さんの簡単な言葉に、彼の背には汗が流れた。自分を離した手がやみの中に後ろから現われて、自分を再びつかもうとしているのを、彼は目に見るような気がした。
彼は答えた。
「そうだよ、貸し馬車をさがしてるところなんだが。」
そして彼は急いでつけ加えた。


「しかし、この辺には一台もないよ。」
「ございますさ。」と婆さんは言った。
「どこにあるんだい。」と車大工は言った。
「私どもに。」と婆さんは答えた。
旅客は慄然とした。恐るべき手は再び彼を捕えたのだった。
婆さんはなるほど一種の籠馬車を物置きに持っていた。車大工と馬丁は、旅客が自分たちの手から離れようとしているのに落胆して、言葉をはさんだ。
「ひどくガタガタの馬車だ。箱が直接心棒についている。なるほど、中の腰掛けは皮ひもでぶら下げてあるんだ。雨が降り込むぜ。車輪は湿気にさびついて腐ってるじゃねえか。あの小馬車と同じにいくらも行けるものか。まったくのガタガタ馬車だ。こんなものに乗ったら旦那は災難だ。」などと。
なるほどそのとおりであった。しかしそのがた馬車は、そのガタガタ馬車は、その何かは、ともかくも二つの車輪の上についていた、そしてアラスまでは行けるかも知れなかった。
旅客は婆さんの言うだけの金を渡し、帰りに受け取るつもりで小馬車の修繕を車大工に頼んで、その馬車に白馬をつけさせ、それに乗って、朝から進んできた道に再び上った。
馬車が動き出した時、彼は自分の行こうとしている所へは行けないだろうと思って、先刻ある喜びの情を感じたことを、自ら認めた。彼は今その喜びを一種の憤怒をもって考え、それがまったく不合理だと認めた。何ゆえにあとに戻ることを喜ばしく感じたのか?要するに彼は勝手に自らその旅を初めたのではなかったか。だれも彼にそれを強しいたのではなかったのだ。
そしてまた確かに、彼が自ら望んでいることのほかは何も起こるはずはないのだ。
エダンを去るとき、彼はだれかが呼びかける声を聞いた。「止めて下さい!止めて下さい!」彼は勢いよく馬車を止めた。そのうちにはなお、希望に似た何か熱烈な痙攣的なものがあった。
彼を呼び止めたのは婆さんの子供だった。
「旦那、」と子供は言った、「馬車をさがして上げたのは私だが。」
「それで?」
「旦那は何もくれないだもの。」
だれにも少しも物を惜しまなかった彼も、その請求を無法なほとんど憎むべきもののように感じた。
「ああそれはお前だった。」と彼は言った。「だがお前には何もやれないぞ!」
彼は馬に鞭をあてて大駆けに走り去った。
彼はエダンでだいぶ時間を失っていた。彼はそれを取り返そうと思った。小さな馬は元気に満ちて、二頭分の力で駆けていた。しかし時は二月で、雨の後でさえあったので、道は悪くなっていた。その上、今度は小馬車ではなかった。車は鈍く重く、かつ多くの坂があった。
エダンからサン・ポルまで行くのに、四時間近くかかった。五里に四時間である。
サン・ポルに着いて彼は、見当たり次第の宿屋で馬をはずし、それを廐に連れて行った。スコーフレールとの約束もあるので、馬に食物をやっている間、秣槽のそばに立っていた。そして悲しいごたごたしたことを考えていた。
宿屋の主婦が廐にやってきた。


「旦那はお食事はいかがですか。」
「なるほど、」と彼は言った、「ひどく腹がすいてる。」
彼は主婦について行った。主婦は元気な美しい顔色をしていた。彼を天井の低い広間に案内した。そこには卓布の代わりに桐油をしいた食卓が並べられていた。
「大急ぎだよ。」と彼は言った。「私はすぐにまた出立しなければならない。急ぎの用だから。」
ふとったフランドル人の女中が、大急ぎで食器を並べた。彼はほっとしたような気持でその女をながめた。
「何だか変だと思ったが、なるほどまだ食事もしていなかったのだ。」と彼は考えた。
食物は運ばれた。彼は急いでパンを取って一口かじった。それから静かに食卓の上にパンを置いて、再びそれに手をつけなかった。
一人の馬方が他のテーブルで食事をしていた。彼はその男に向かって言った。
「どうしてここのパンはこうまずいだろうね。」
馬方はドイツ人で、彼の言葉がわからなかった。
彼は馬の所へ廐に戻って行った。


一時間後に、彼はサン・ポルを去ってタンクの方へ進んでいた。タンクはもうアラスから五里しかへだたっていなかった。

その道程の間、彼は何をなし、何を考えていたか? 朝の時と同じく、樹木や茅屋の屋根や、耕された畑や、道を曲がるたびに開けてゆく景色の変化を眺めていた。人の心は時として、ただ惘然と外界を眺めることに満足し、ほとんど何事も考えないことがある。しかし、かく種々の事物を初めて見、しかもそれで見納めとなることは、いかに悲しいまた深刻なことであろう! 旅をすることは、各瞬間ごとに生まれまた死ぬることである。おそらく、彼はその精神の最も空漠なる一隅において、移り変わりゆく眼界と人間の一生とを比べてみたであろう。人生のあらゆる事物は絶えず吾人の前を過ぎ去ってゆく。影と光が入り交じる。眩惑の輝きの後には陰影が来る。人は眺め、急ぎ、手を差し出し、過ぎゆくものをとらえんとする。各事変は道の曲がり角である。そして突然人は老いる。ある動揺を感ずる。すべては暗黒となる。暗い戸が開かれているのがはっきりと見える。人を引いていた人生の陰暗な馬は歩みを止める。そして人は覆面の見知らぬ男が暗やみのうちにその馬を解き放つのを見る。

旅客がタンクの村に入るのを学校帰りの子供らが見たのは、もう薄暗がりの頃だった。一年の中でも日の短い季節であった。彼はタンクには止まらなかった。彼がその村から出た時、道に砂利を敷いていた道路工夫が顔をあげて言った。

「馬がだいぶ疲れてるようだな。」

あわれな馬は実際もう並み足でしか歩いていなかった。

「アラスへ行きなさるのかね。」と道路工夫はつけ加えた。

「そうだ。」

「そういうことじゃ、早くは着けませんよ。」

彼は馬を止め、道路工夫に尋ねた。

「アラスまでまだいかほどあるだろう?」

「まあたっぷり七里かな。」

「どうして? 駅の案内書では五里と四分の一だが。」

「ああお前さんは、」と道路工夫は言った、「道普請中なのを知りなさらねえんだな。これから十五分ほど行くと往来止めになっている。それから先は行けませんよ。」

「なるほど。」

「まあ、カランシーへ行く道を左へ取って、川を越すだね。そしてカンブランへ行ったら、右へ曲がるだ。その道がモン・サン・エロアからアラスへ行く往来だ。」

「だが夜にはなるし、道に迷わないとも限らない。」

「お前さんはこの辺の者ではないんだな。」

「ああ。」

「それに方々に道がわかれてるでね。……まてよ、」と道路工夫は言った、「いいことを教えてあげよう。お前さんの馬は疲れてるで、タンクへ戻るだね。いい宿もありますぜ。お泊まんなさい。そして明日アラスへ行くだね。」

「今晩行かなくちゃならないんだ。」

「ではだめだ。それじゃあやはりタンクの宿へ行って、なお一頭馬を借りるだね。そして馬丁に道を案内してもらうだね。」

彼は道路工夫の助言に従い、道を引き返していった。そして三十分後には、りっぱな副馬をつけて大駆けに同じ所を通っていた。御者だと自ら言ってる馬丁は、馬車の轅の上に乗っていた。

それでも彼はなお急ぎ方が足りないような気がした。

もうまったく夜になっていた。

彼らは横道に進み入った。道は驚くほど悪くなった。馬車はあちこちの轍の中へ落ち込んだ。彼は御者に言った。

「どしどし駆けさしてくれ。酒代は二倍出す。」

道のくぼみに一揺れしたかと思うと、馬車の横木が折れた。

「旦那、」と御者は言った、「横木が折れましたぜ。これじゃ馬のつけようがありません。この道は夜はひどいですからな。旦那がこれからタンクへ戻って泊まるなら、明日は早くアラスへ行けますが。」


彼は答えた。「縄とナイフはないかな。」

「あります。」

彼は一本の木の枝を切り、それを横木にした。それでなお二十分費やした。しかし彼らはまた大駆けに走っていった。

平野は真っ暗だ。低く狭い黒い靄が丘の上を這い、煙のように丘から飛び散っていた。雲のうちにはほの白い明るみがあった。海から吹く強い風は、家具を動かすような音を遠く地平線の隅々に響かせていた。目に触れるものすべては、恐怖の姿をしていた。暗夜の広大な風の息吹の下にあって、何かが身を震わせないものがあろうか!

寒さは彼の身にしみた。彼は前日来ほとんど何も食べていなかった。彼は漠然と、ディーニュ付近の広野を暗夜に彷徨った時のことを思い出した。それは八年前のことだったが、昨日のことのように思われた。

遠い鐘楼で時を報じた。彼は馬丁に尋ねた。

「あれはnだろう。」

「七時です、旦那だんな。八時にはアラスに着けます。もう三里しかありません。」

その時、彼は初めて次のことを考えた。どうしてもっと早く考えおよばなかったかが自ら不思議に思えた。「こんなに骨折ってもおそらくは徒労に帰するかも知れない。自分は裁判の時間さえ知ってはいない。少なくともそれくらいは聞いておくべきだった。何かに役立つかどうかもわからないで、前へばかり進んでゆくのは、狂気の沙汰だ。」それから彼は頭の中で少し計算し始めた。「通常、重罪裁判の開廷は午前九時からである。あの事件はたぶん長くはならないだろう。林檎窃盗の件はすぐに済むだろう。後あとはただ人物証明の問題だけだ。四、五人の証人の陳述があり、弁護士が口をきく余地は少ない。すべてが終わってから自分はそこに着くようになるかも知れない!」

御者は二頭の馬に鞭を当てていた。彼らはもう川を越して、モン・サン・エロアを通りこしていた。夜はますます深くなっていった。

 

6.サンプリス修道女の試練

一方、その時ファンティーヌは喜びの中にあった。彼女は非常に険悪な一夜を過ごしていた。激しい咳と高熱、さらに悪夢に襲われたのだ。朝、医者が見舞ったときには、意識が乱れていた。医者は心配そうな表情を浮かべ、マドレーヌ氏が来たら知らせてほしいと頼んでいった。

午前中、彼女は沈鬱で、あまり口をきくこともなく、何か距離に関する計算を小声でつぶやきながら、敷布に折り目をつけていた。目はくぼみ、じっと据わって、ほとんど光を失っているようだった。そして時々、光を帯びてきて星のように輝いた。ある暗い時間が迫っている時、地の光を失った人に天の光が差し込むことがあるようだ。

サンプリス修道女がその心持ちを聞くと、彼女は決まってこう答えた。「よろしゅうございます。私はただマドレーヌ様にお目にかかりたいのですけれど。」

数カ月前、最後の貞節と最後の羞恥、最後の喜びを失った時、彼女はもはや自分の影に過ぎなくなった。そして今や、彼女は自分自身の幻にすぎなかった。身体の苦しみは、心の悩みが引き起こした仕事を仕上げてしまった。二十五歳というのに、額にはしわが寄り、頬はこけ、小鼻は落ち、歯茎は現れ、顔色は青ざめ、首筋は骨立ち、鎖骨は飛び出し、手足はやせ細り、皮膚は土色になり、金髪には灰色の毛が交じっていた。ああ、病はどれほど老衰を早めるのだろう!

正午にまた医者が来た。彼はある処方を記し、市長が病舎に来たかと尋ね、そして頭を振った。マドレーヌ氏はいつも三時に見舞いに来るのだ。正確さは一つの親切である。彼はいつも正確だった。

二時半ごろ、ファンティーヌは気をもみ始めた。二十分間の間に、彼女は十回以上もサンプリス修道女に尋ねた。「もう何時でございますか?」

三時が鳴った。ファンティーヌは、いつもなら床の中で寝返りもできないくらいだったのに、三つの時計が鳴ると上半身を起こした。彼女はその骨立った黄色い両手を痙攣的にしかと組み合わせた。そして、何か重いものを持ち上げようとするような深いため息が一つ、彼女の胸から漏れたのを、サンプリス修道女は聞いた。それからファンティーヌは振り向き、扉の方を眺めた。

誰も入ってこなかった。扉は開かなかった。彼女は十五分ほどそのままで、扉に目を据え、息をつめたようにじっと動かずにいた。サンプリス修道女も口をききかねた。教会の時計は三時十五分を報じた。ファンティーヌはまた枕の上に身を落とした。彼女は何とも言わず、再び敷布に折り目をつけ始めた。

三十分たち、次いで一時間が経った。誰もやってこなかった。大時計が打つたびに、ファンティーヌは起き上がって扉の方を眺めた。そしてまた倒れた。その心持ちは傍から見てよく察せられた。しかし彼女は誰の名も言わず、苦情も言わず、誰をも責めなかった。ただ痛ましげに咳をした。何か暗いものが彼女の上に覆いかぶさってくるようだった。彼女はまっさおになり、唇は青くなっていた。時々、微笑みを漏らした。

五時が鳴った。その時、サンプリス修道女は、彼女が低い声で静かに言うのを聞いた。「もう私は明日逝ってしまうのに、今日来て下さらないのは間違っているわ。」

サンプリス修道女の方でも、マドレーヌ氏の遅さに驚いていた。その間にも、ファンティーヌは寝床から空を眺めていた。彼女は何かを思い出そうと努めているらしかった。そして突然、息のような弱い声で歌い出した。サンプリス修道女はそれに耳を傾けた。ファンティーヌが歌ったのは次のようなものだった。


美しいものを買いましょう、市外の通りを歩きながら。

野菊は青く、薔薇はまっかに、

野菊は青く、ほんとうにかわいい私の児。

昨日、私の炉辺にいらしていた

刺繍のマントの聖母マリア様、

「いつかお前の願った小さな児、

それ私のヴェールの中に」との御仰せ。

「街に行って布を求め、

指貫と糸を買ってきてくれ。」

美しいものを買いましょう、市外の通りを歩きながら。

聖母様、リボンで飾った揺籃を

私は炉のもとに置きました。

神様の一番きれいな星よりも、

いただいた子供がかわいくございます。

「奥様、この布で何を作りましょう?」

「坊やに着物を作っておくれ。」

野菊は青く、薔薇はまっかに、

野菊は青く、ほんとうにかわいい私の児。

「この布を洗っておくれ。」

「どこで洗いましょう?」

「川の中でよ。痛めず、汚さないでね、

美しい裾着と下着を作っておくれ。

私はそれに刺繍の花をいっぱいつけましょう。」

「赤ちゃんが見えません。奥様、何にいたしましょう?」

「それなら、私を葬る経帷子にしておくれ。」

美しいものを買いましょう、市外の通りを歩きながら。

野菊は青く、薔薇はまっかに、

野菊は青く、ほんとうにかわいい私の児。


それは古い子守歌だった。昔、ファンティーヌはそれを歌って小さなコゼットを寝かしつけた。しかし、子供と別れて五年、この方、一度も頭に浮かばなかった。今、彼女は修道女をも泣かせるほどの悲しい声と優しい調子で歌った。厳格なことにのみ慣れていたサンプリス修道女も、徐々に涙が目に浮かんでくるのを感じた。

大時計は六時を報じた。ファンティーヌはそれを聞いていないようだった。彼女はもう周囲のことには何も注意を向けていないらしかった。

サンプリス修道女は雑仕婦をしている。市長は帰ってこられたのか、そしてすぐに病舎に来られるのかを、工場の門番の婆さんに尋ねた。雑仕婦は二、三分して帰ってきた。

ファンティーヌはやはり身動きせず、何か自分の考えにふけっているようだった。

雑仕婦は低い声でサンプリス修道女に語った。「市長はこの寒さの中、朝六時前に白い馬に引かせた小馬車で出かけられた。一人の御者も連れていない。どちらへ行ったのか、誰も知らない。アラスへ行く道の方へ曲がったのを見たという者もあれば、パリーへ行く道で出会ったという者もいる。出かけられる時もいつものように柔らかだった。ただ、門番の婆さんに今晩は待っていないようにと言って行かれた。」

サンプリス修道女は問い尋ね、雑仕婦はいろいろ想像しながら、二人でファンティーヌの寝台に背を向けてひそひそささやいていた。その間、ファンティーヌは健康な自由な運動と死の恐ろしい衰弱を同時に引き起こす、臓器病特有の熱発的な元気で、寝床の上にひざまずき、枕元に震える両手をついて、帷の間から頭を突き出して耳を傾けていた。そして突然、彼女は叫んだ。

「あなたたちはマドレーヌ様のことを話しているのですね! なぜそんな低い声をなさるの? あの人はどうなさったのです? なぜいらっしゃらないのです?」

その声は荒々しく嗄れ、二人の女は男の声を聞いたような気がした。二人は驚いて振り向いた。

「返事をしてください!」とファンティーヌは叫んだ。

雑仕婦はつぶやいた。「門番のお婆さんの言葉では、今日はあの方はおいでになれないかもしれませんそうです。」

「まあ、あなた、」修道女は言った。「落ち着いて、横になっていらっしゃい。」

ファンティーヌはなおそのままの姿勢で、おごそかな悲痛な調子で声高に言った。「こられません? なぜでしょう? でもあなた方にはわかっているはずです。今、お二人で小声で話していらしたじゃありませんか。私にも知らしてください。」

雑仕婦は急いで修道女の耳にささやいた。「市会の御用中だとお答えなさいませ。」

サンプリス修道女は軽く顔をあからめた。雑仕婦が勧めたことは一つの虚言であった。しかしまた一方においては、本当のことを言えば必ず病人に大きな打撃を与えるだろうし、ファンティーヌの今の容態では重大なことになりそうにも思えた。しかし彼女の赤面は長くは続かなかった。彼女は静かな悲しい目つきでファンティーヌを見つめ、言った。

「市長さんはどこかへ出かけられました。」

ファンティーヌは身を起こしてそこに座った。その目は輝き、異常な喜びが痛ましい顔に浮かんだ。

「出かけられた!」と彼女は叫んだ。「コゼットを引き取りに行かれた!」

そして彼女は両手を天に差し出した。その顔は名状し難い様を呈し、彼女の唇は震えていた。彼女は低い声で祈りをささげた。

祈祷を終えて彼女は言った。「あなた、私はまた横になりたくなりました。これから何でもおっしゃる通りにいたしますわ。今、私はあまり勝手でした。あんな大きな声を出したりなんかして、お許し下さい。大きな声を出すのは悪いことだとよく知っております。けれど、ねえあなた、私は本当にうれしいんです。神様は御親切です。マドレーヌ様は御親切です。まあ考えてみてください、あの方は私の小さなコゼットを引き取りにモンフェルメイユへ行って下さったんですもの。」


彼女は横になった。修道女に自ら手伝って枕を直した。そして、サンプリス修道女からもらって首にかけていた小さな銀の十字架に唇をつけた。

「あなた、」と修道女は言った、「これから静かにお休みなさい。もう口をきいてはいけませんよ。」

ファンティーヌは汗ばんだ両手のうちに修道女の手を取った。修道女は彼女のその汗を感じて心を痛めた。

「あの方は今朝パリへ発たれたのでしょう。実際、パリを通る必要はありません。モンフェルメイユは向こうから来ると少し左にそれています。あなたは覚えているでしょう、昨日私がコゼットのことを話すと、すぐだ、すぐだとおっしゃったのを。私をびっくりさせようと思っていらっしゃるんですわ。あなたも御存じでしょう、テナルディエの所から子供を取り戻す手紙に私に署名させなすったのを。もう先方でも否いやとは言えませんわねえ。きっとコゼットを返してくれるでしょう。金を受け取っているんですもの。金は受け取って子供は返さないなどということを、お上も許しておかれるはずがありません。あなた、口をきかないで様子を見ていてください。私はたいそううれしいんです。もう全く苦しくありません。コゼットに会えるんですもの。何だか何かを少し食べたい気がします。

あの子にはもう五年も会っていないんです。子供がどんな存在か、あなたには理解できないでしょう。それにきっとあの子は大変おとなしいでしょうよ。ねえ、薔薇色の小さな可愛い指を持っていますわ。第一、大変きれいな手をしていますでしょう。でも一歳の時にはおかしな手をしていました。ええ、そうですよ。――今では大きくなっているでしょう。もう七歳ですもの、立派な娘ですわ。私はコゼットと呼んでいますが、本当はユーフラージーというんです。そう、今朝暖炉の上のほこりを見ていましたら、間もなくコゼットに会えるだろうという考えがふと起こりましたのよ。ああ、何年も自分の子供の顔を見ないでいるのは、何という悲しいことでしょう! 人の命はいつまでも続くものでないことをよく考えておかなければなりません。

おお、行って下さるなんて市長さんは何と親切なお方でしょう! 大変寒いというのは本当なんですか。せめてマントくらいは着てゆかれましたでしょうね。明日はここにお帰りですわね。明日はお祝い日ですわ。明日の朝は、レースのついた小さな帽子をかぶることを私に注意して下さいね。モンフェルメイユはそれは田舎ですわ。昔、私は歩いてやってきたんです。ずいぶん遠いように思えました。けれど、駅馬車なら早いものです。明日はコゼットといっしょにここにおいでになりますわ。ここからモンフェルメイユまで、どれくらいの距離があるのでしょうか?」

サンプリス修道女には距離のことは少しもわからなかったので、ただ答えた。「ええ、明日はここに帰っておいでになると思います。」

「明日、明日、」とファンティーヌは言った。「明日私はコゼットに会える! ねえ、御親切な童貞さん、私はもう病気ではありませんわね。気が変なようですわ。よかったら踊っても見せますわ。」

十五分も前の彼女の様子を見た者があったら、今のその様子に訳がわからなくなったであろう。彼女はもう美しい顔色をしていた。話す声も元気があり自然であって、顔にはいっぱい微笑をたたえていた。時々は低く独語しながら笑っていた。母親の喜びはほとんど子供の喜びと同じである。

「それで、」とサンプリス修道女は言った。「あなたはその通り幸せですから、私の言うことを聞いて、もう口をきいてはいけませんよ。」

ファンティーヌは頭を枕につけて、半ば口の中で言った。「そう、お寝やすみなさい。子供が来るんだからおとなしくしなければいけませんって、サンプリスさんのおっしゃるのは道理もっともだわ。ここの人たちのおっしゃることは皆本当だわ。」


それから、身動きもせず、頭も動かさず、目を大きく見開いてうれしそうな様子で、彼女はあたりを見回し始めた。そしてもう何とも言わなかった。

サンプリス修道女は、彼女が眠るようにとその帷とばりをしめた。

七時と八時の間に医者が来た。何の物音も聞こえなかったため、彼はファンティーヌが眠っているのだと思って、そっと室に入ってきて、爪先立って寝台に近寄った。彼は帷とばりを少し開き、豆ランプの光で覗くと、ファンティーヌの静かな大きな目が彼をじっと見ていた。

彼女は優しい声で言った。「あなた、私のそばに小さな床をしいてあの子を寝かして下さいますわね。」

医者は彼女の意識が乱れているのだと思った。彼女は付け加えた。「ごらんなすって下さい、ちょうどそれだけの場所はありますわ。」

医者はサンプリス修道女をわきに呼んだ。修道女は事情を説明した。マドレーヌ氏は一日か二日不在である。病人は市長がモンフェルメイユに行かれたのだと信じているが、よくわからないので事実を明かさなければならないとも思えないし、また病人が察することが、逆に本当かもしれない。すると医者はそれに同意した。

医者はまたファンティーヌの寝台に近寄っていった。彼女は言った。「そうすれば、朝あの子が目を覚ましたら、こんにちはと言ってあげられますし、晩に眠れない時には、子供の寝息が聞こえるでしょう。そのやさしい小さな寝息を聞くと、きっと心持ちがよくなりますわ。」

「手を貸してごらんなさい。」と医者は言った。

彼女は腕を差し出した、そして笑いながら叫んだ。「まあ、ほんとに、あなたにはおわかりになりませんの。私は治ったのですわ。コゼットが明日参りますのよ。」

医者は驚いた。彼女は前よりよくなっていた。息苦しさは和らいでいた。脈は力を取り戻していた。突然、生命の力がよみがえって、その衰弱しきったあわれな女に元気を与えていた。

「先生、」と彼女は言った。「市長さんが赤ん坊を連れに行かれましたことを、サンプリスさんはあなたにおっしゃいませんでしたか。」

彼女になるべく口をきかせないように、また彼女の心を痛めるようなことをしないようにと、医者は人々に頼んだ。彼はまた規那皮だけの煎薬と、夜分に熱が出た場合のための鎮静水薬とを処方した。そして立ち去る時、修道女に言った。「よくなってきました。幸いにも果たして市長が明日、子供を連れて来てくださったら、そうですね、思いがけないことがあるかもしれません。非常な喜びが急に病気を治す例もあります。この患者の病気は明らかに一つの臓器病ですし、しかもだいぶ進んでいます。しかしまったく不可思議なものです。あるいは生命を取り留めることができるかもしれません。」

 

7.到着せる旅客ただちに出発の準備をなす

さて、私たちが途中に置いておいたあの馬車がアラスの郵便宿の門をくぐったのは、夜の八時近くでした。私たちがこれまで述べてきたあの旅客は、馬車から降り、宿屋の人たちの挨拶を無視し、副馬を返し、自ら小さな白馬を厩舎に引いて行きました。それから彼は一階にある撞球場の扉を開き、中に入りました。そこに腰をおろして、テーブルの上に肘をつきました。六時間で済むつもりの旅に十四時間かかったのです。彼はそれを自分の過ちではないと心の中で思い込んだ。しかし、心の中では別に不快を覚えているわけではありませんでした。

宿の主婦が入ってきました。「旦那はお泊まりですか。お食事はいかがですか。」

彼は頭を横に振りました。「馬丁が言うには、旦那の馬は大変疲れているそうです。」

それで初めて彼は口を開きました。「馬は明朝また出立するわけにはいかないでしょうか。」

「なかなか旦那、まあ二日くらいは休ませませんでは。」

彼は尋ねました。「ここは郵便取扱所ではありませんか。」

「はい、そうでございます。」主婦は彼を郵便取扱所に案内しました。彼は通行証を示し、その晩の郵便馬車でモントルイュ・スュール・メールに戻る方法がないかと尋ねました。ちょうど郵便夫の隣の席が空いていました。彼はそれを約束して金を払いました。「では、」と所員は言いました。「出発するために午前一時に間違いなくここに来てください。」

それが済んで、彼はその郵便宿を出ました。そして街を歩き始めました。彼はアラスの街の様子を全く知らなかった。街路は薄暗く、彼はでたらめに歩きました。頑固に無視し、通行人に道を尋ねることはしませんでした。小さなクランション川を越すと、狭い小路の入り乱れたところに踏み込んで道がわからなくなりました。一人の町人が提灯をつけて歩いていました。ちょっと躊躇した後、彼はその人に尋ねてみようと決心しました。そしてまず、誰かが自分の問いを聞いてしまわないかを恐れるように、前後を見回した後に言いました。「ちょっと伺いますが、裁判所はどこでしょう。」

「あなたは街の人ではないようですね。」とかなり年取ったその町人は答えました。「では私についておいでなさい。私もちょうど裁判所の方へ、つまり県庁の方へ行くところです。ただ今では裁判所が修繕中ですから、仮に裁判は県庁で開かれています。」

「そこで、」と彼は尋ねました。「重罪裁判も開かれるのですか。」

「もちろんです。今日県庁となっている建物は、大革命前には司教邸でした。一七八二年に司教だったコンジエ氏が、そこに大広間を建てさせたのです。裁判はその大広間で行われています。」

歩きながら町人は彼に言いました。「もし裁判が見たいというのなら、少し遅すぎますよ。普通は法廷は六時に閉じますから。」

けれども二人がその広場に来た時、真っ暗な大きな建物の正面の灯火のついた四つの長い窓を、町人は彼に指さして示しました。「やあ間に合った。あなたは運がいいんですよ。あの四つの窓が見えますか。あれが重罪裁判です。光が差しているところを見ると、まだ終わっていないようです。事件が長引いたので夜までやっているのでしょう。あなたは事件に何か関係があるのですか。刑事問題ででもあるのですか。あなたは証人ですか。」

彼は答えました。「私は別に事件に関係があって来たのではありません。ただちょっとある弁護士に話したいことがあるものですから。」

「いやそうでしたか。」と町人は言いました。「それ、ここに入り口があります。番人はどこにいるかしら。その大階段を上がって行かれたらいいでしょう。」

彼は町人の教えに従いました。そしてやがてある広間に出ました。そこには大勢の人がいて、法服の弁護士を交じえた集団が所々に作って何かささやいていました。

黒服をつけて法廷の入り口で小声にささやき合っている人々の群れは、いつも見る人の心を痛ましめるものである。慈悲と同情がその言葉から出ることは非常にまれである。最も多く出るものは、あらかじめ定められた処刑である。考えにふけりつつそこをよぎる傍観者にとっては、それらの群集は陰惨な蜂の巣のように見えるのであろう。その巣の中では、騒いでいる多くの頭が協同してあらゆる暗黒な建物を築こうとしているのである。

そのただ一つのランプの灯ともされた大きな広間は、昔は司教邸の控えの間であったが、今は法廷の控室となっていました。観音開きの扉が、その時閉ざされていて、重罪裁判が開かれている大きな室を隔てていました。


広間の中は薄暗かったので、彼は最初に出会った弁護士に平気で話しかけました。「審問はどのくらい進んでいますか。」

「もう済みました。」と弁護士は言いました。

「済みました!」

そう鋭い語調でおうむ返しにされたので、弁護士は振り返って見ました。「失礼ですが、あなたは親戚なんですか。」

「いや、私の知っている者は一人もここにはいません。そして、刑に処せられたのですか。」

「もちろんです。処刑は避けられません。」

「徒刑に?……」

「そうです、終身です。」

彼はようやく聞き取れるくらいの弱い声で言いました。「それでは、同一人だということが検証されたわけですね。」

「同一人ですって?」と弁護士は答えました。「そんなことを検証する必要はなかったのです。事件は単純です。その女は子供を殺しました。児殺しの事実は証明されたが、陪審員は謀殺を認めなかったため、終身刑に処せられたのです。」

「では女の事件ですか。」と彼は言いました。

「そうですとも。リモザンの娘です。いったい何のことをあなたは言っているんですか。」

「いや、何でもありません。ですが裁判は済んだのに、どうして法廷にはまだ灯火がついているのですか。」

「次の事件があるからです。もう開廷して二時間ほどになるでしょう。」

「次の事件というのはどういうのです。」

「なに、それも明瞭な事件です。一種の無頼漢で、再犯者で、徒刑囚で、それが窃盗を働いたのです。名前はよく覚えていません。人相の悪い奴です。人相からだけでも徒刑場にやっていい奴です。」

「どうでしょう、」と彼は尋ねました。「法廷の方へ入る方法はないでしょうか。」

「どうも難しいでしょう。大変な人です。しかし、ただいま休憩中です。外に出た人もいますから、また始まったら一つ骨折ってごらんなさい。」

「どこから入るのです。」

「この大きな戸口からです。」

弁護士は向こうへ行きました。二、三瞬間の間に彼は、あらゆる感情をほとんど同時に感じました。その無関係な弁護士の言葉は、氷の針のように、あるいは炎の刃のように、彼の心を刺し貫きました。まだ何も終結していないのを知った時、彼は息をつきました。しかし、彼が感じたのは満足の情であったか、あるいは苦悩の情であったか、彼自身も語ることはできなかったでしょう。

彼は多くの群集に近寄り、その話に耳を傾けました。――法廷では事件が非常に混雑していたため、裁判長はその日のうちに簡単な二つの事件を選びました。まず児殺しの事件から始めて、今度はあの徒刑囚、再犯者、「古狸」の方の番になりました。その男はリンゴを盗んだのです。しかし、それは証拠不十分だったようです。しかし、逆にその男は一度ツーロンの徒刑場に入っていたという証拠が上がりました。事件は厳しい状況になりました。本人の尋問と証人の供述は済みました。しかし、なお弁護士の弁論と検事の論告が残っています。夜半にならなければ終結しないに違いありません。その男はたぶん刑に処せられるでしょう。検事は賢明な人で、決して被告を逃したことがなく、また少しは詩も作れる才人です。

法廷の室に通ずる扉のところに一人の守衛が立っていました。彼はその守衛に尋ねました。「この扉は間もなく開かれますか。」

「いや、開きません。」と守衛は答えました。

「え! 開廷になっても開かないのですか。今裁判は休憩になっているのではないですか。」

「裁判は今また始まったところです。」と守衛は答えました。

「しかし扉は開かれません。」

「なぜです。」

「中は満員ですから。」

「何ですって!もう一つ席はないのですか?」

「一つもありません。扉はしまっています。もう誰も入ることはできません。」

守衛はそこでちょっと言葉を切り、またつけ加えました。「裁判長殿の後ろにまだ二、三の席がありますが、そこには官吏の人のみ許されていません。」

そう言って、守衛は彼に背を向けました。

彼はうなだれてその場を離れ、控え室を通り、あたかも一段ごとに逡巡するかのようにゆっくり階段を下りていきました。たぶん自ら自分に相談していたのでしょう。前日から彼の心の中で戦われていた激しい闘争は、まだ終わっていなかった。そして彼は各瞬間ごとにその新しい局面を経てきたのです。階段の途中の平らな段まで降りたとき、彼は欄干にもたれて腕を組みました。それから突然フロックの胸を開き、手帳を取り出して鉛筆を引き出し、一枚の紙を破り、その上に反照灯の光で手早く次の一行を認めました。「モントルイュ・スュール・メール市長、マドレーヌ。」それから彼は大またにまた階段を上って、大勢の人を押しわけ、まっすぐに守衛の所へ行き、その紙片を渡し、そして彼に断然と言いました。「これを裁判長の所へ持って行ってもらいたい。」

守衛はその紙片を取り、ちょっと眺めて、そして彼の言葉に従いました。

 

8.好意の入場許可

モントルイュ・スュール・メールの市長と言えば、彼自身はそう思っていなかったが、世間で評判になっていた。その有徳の名声は、七年前からブーロンネーに広がり、あまねく響いていたが、ついにはその狭い地方を越えて、二、三の近県まで広がっていた。あの黒飾玉工業を回復し、その中心市に大きな貢献をなしたのみならず、モントルイュ・スュール・メール郡の百四十一カ村のうち、彼から何かの恩恵を受けない村はなかった。彼は必要に応じて他郡の工業も助け、盛り上げました。たとえば、ある場合には彼は、自分の信用と資本を投じて、ブーローニュの網目機業を助け、フレヴァンの麻糸紡績業を助け、ブーベル・スュール・カンシュの水力機業を助けた。いたるところで人々はマドレーヌ氏の名前を敬意をもって口にしていた。アラスやドゥーエーの街は、かくのごとき市長をいただくモントルイュ・スュール・メールの幸運な小さな街をうらやんでいた。

アラスの重罪裁判を統べていたドゥーエーの控訴院判事は、かくも広くまた尊敬されている彼の名を、世間の人々と同じくよく知っていた。守衛が評議室から法廷に通じる扉をひそかに開き、裁判長の椅子の後ろに低く身をかがめ、前述の文字がしたためてある紙片を彼に渡して、「この方が法廷にいられたいそうです」とつけ加えた時、裁判長は急に敬意ある態度を取り、ペンを取り上げ、その紙片の下に数語したためて、それを守衛に渡して言った。「お通し申せ。」

われわれがここにその生涯を述べつつあるこの不幸な人は、守衛が去った時と同じ態度のままで同じ場所に、広間の扉のそばに立っていた。彼はぼんやりと考えに沈みながら、「どうぞこちらへおいで下さい」と誰かが言うのを聞いた。先刻は彼に背を向けて冷淡なふうをした守衛が、今は彼に向かって低く身をかがめていた。そして同時に彼に紙片を渡した。彼はそれを開いた。ちょうど近くにランプがあったので、彼は読むことができた。

「重罪裁判長はマドレーヌ氏に敬意を表し候る。」

彼はその数語を読んで異様な苦々しい気持ちを感じたかのように、紙片を手の中でもみくちゃにした。

彼は守衛に従って行った。

やがて彼は、壁板が張られた、いかめしい室の中に自分を見いだした。そこには誰もいず、ただ青い卓布のかかった一つのテーブルの上に二本の蝋燭がともっていた。そして彼の耳にはなお、彼をそこに残して行った守衛の言葉が響いていた。「これが評議室でございます。この扉の銅の取っ手をお回しになりますれば、ちょうど法廷の裁判長殿のうしろにお出になれます。」そしてその言葉は、今通ってきた狭い廊下と暗い階段との漠然とした記憶に、彼の頭の中でからみついていた。

守衛は彼を一人残して行ってしまった。最後の時がきた。彼は考えをまとめようとしたができなかった。思索の糸が脳裏にたち切れるのは特に、人生の痛ましい現実に思索を加える必要を最も多く感ずる時においてである。彼は既に判事らが討議し断罪するその場所にきていたのである。彼は呆然としたまま、その静まり返った恐ろしい室を見回した。この室において、いかに多くの生涯が破壊されたことであろう。やがて彼の名前もこの室に響き渡るのである。そしていまや彼の運命はこの室を過ぎ去りつつある。彼はじっとその壁をながめ、次に自分を顧みた。それがこの室であり、それが自分自身であることを、彼は自ら驚いた。

彼はもう二十四時間以上の間何も食べず、また馬車の動揺のために弱り切っていた。しかし彼はそれを自ら感じなかった。何の感じも持っていないような心地がしていた。

彼は壁にかかっている黒い額縁に近づきました。そのガラスの下にはパリー市長でありまた大臣であったジャン・ニコラ・パーシュの自筆の古い手紙が納めてあった。日付は、きっと間違ったのであろうが、革命第二年六月九日としてあった。それはパーシュが、自家拘禁に処せられた大臣や議員の名簿をパリー府庁に送ったものだった。その時もし誰かが彼を観察したならば、必ずや彼がその手紙を非常に珍しがっているものと思ったであろう。なぜなら、彼はその手紙から目を離さず、二、三度繰り返して読んだのだった。しかし彼は何らの注意も払わず、ほとんど無意識にそれを読んでいるにすぎなかった。心ではファンティーヌとコゼットのことを考えていた。


考えにふけりながら彼はふと振り返った。そして彼の目は、彼を法廷から距離を隔てている扉の銅の取っ手にぶつかった。彼はその扉をほとんど忘れていた。彼の視線は初めは穏やかにその銅の取っ手に引きつけられ、次に驚いてじっとそれに据わり、しだいに恐怖の色を帯びてきた。汗の玉が髪の間から両のこめかみに流れてきた。

ふと彼はおごそかに、また反抗的に何ともいえぬ身振りをした。それは、「馬鹿な!だれがいったい私にこんなことを強いるのか?」という意味らしく、またその意味がよく現れていた。それから彼は急に向き返って、自分の前に今入ってきた扉があるのを見、その方に歩いて行き、それを開いて出て行った。そして今やもう彼はその室の中にはいないのだった。室の外に、廊下に出ているのだった。廊下は狭く、長く、段差や戸口で仕切られ、種々折れ曲がっており、ここかしこに病人用の豆ランプに似た反照灯がついていた。これを彼は先刻通ってきたのである。彼はほっと一息ついた。耳を澄ますと、前にも後ろにも何の物音もなかった。彼は追われる者のように逃げ出した。

廊下の幾つかの角を曲がった時、彼はなお耳を傾けた。周囲はやはり同じような沈黙と闇ばかりだった。彼は息を切らし、よろめきながら、壁に身を寄せた。壁の石は冷ややかに、額の汗は氷のようになっていた。彼は身を震わせながら立ちすくんだ。

そしてそこにただ一人、暗やみの中にたたずみ、寒さとまたおそらく他の何かに震えながら彼は考えた。彼は既に終夜考え、既に終日考えたのであった。そしてもはや自分のうちにただ一つの声を聞くのみだった。「ああ」と。

十五分ばかりはかくして過ぎた。ついに彼は首をたれ、苦しいため息をもらし、両腕をたれ、また足を返した。彼はあたかも圧伏されたかのようにゆるやかに足を運んだ。逃げるところを捕らえられて引き戻されるような様子だった。

彼は再び評議室に足を踏み入れた。最初に彼の目にとまったものは、扉の引き金であった。その磨き上げた銅の丸い引き金は、彼の目には恐るべき星のように輝いていた。まるで羊が虎の目を見るかのように、彼はそれをじっと見つめた。

彼の両の目はそれから離れることができなかった。時々彼は歩を進め、その扉に近づいていった。もし耳を澄ましたならば、雑然たるささやきのような隣室の響きを彼は聞き取り得ただろう。しかし彼は耳を澄まそうとしなかった。そして何物も聞かなかった。

突然、自分でもどうしてだか知らないうちに、彼は扉のそばに自分を見いだした。彼は痙攣的にその取っ手をつかんだ。扉は開いた。

彼は法廷の中に入った。

 

9.罪状決定中の場面

彼は一歩進み、後ろに機械的に扉を閉め、そしてそこに立ちながら眼前の光景を眺めた。それは十分に燈火のついていない広い室で、あるいは一斉に騒ぎ立ち、あるいはひっそりと静まり返っていた。刑事訴訟の機関が、その賤やしい痛ましい荘重さをもって群集の中に展開していた。

彼が立っている広間の一隅には、判事たちがぼんやりした表情で、擦り切れた服を着て、爪をかんだり目を閉じたりしていた。他の一隅には粗服の群集がいた。それからまた、様々な姿勢をした弁護士たちや、正直で威厳のある顔の兵士たち。汚点のついている古い壁板、汚い天井、緑というよりもむしろ黄ばみかけているセルの着せてあるテーブル、手垢で黒くなっている扉、羽目板の釘に下がって光よりもむしろ煙の方を多く出している居酒屋にでもありそうなランプ、テーブルの上の銅の燭台に立っている蝋燭、薄暗さ、醜さ、そして侘しさ。そしてそれらすべてには一種の尊厳な印象があった。なぜなら人はそこにおいて、法律と呼ぶ偉大なる人事と正義と呼ぶ偉大なる神事を感じるからである。

それらの群集の中で誰も彼に注意を払う者はいなかった。人々の視線はただ一つの点に集中されていた。そこには、裁判長の左手に当たって壁に沿い小さな扉によせかけた木の腰掛けがあった。幾つもの蝋燭に照らされたその腰掛けの上には、二人の憲兵にはさまれて一人の男が座っていた。

それが即ち例の男であった。

彼は別に探しもしないですぐにその男を見た。あたかもそこにその男がいるのをあらかじめ知っていたかのように、彼の目は自然にそこへ向けられたのである。

彼は年老いた自分自身を見ているような気がした。もちろん顔は全然同じではなかった。しかしその同じような態度や様子、逆立った髪、荒々しい不安な瞳、広い上衣、それは、十九年間、徒刑場の舗石の上で拾い集めた恐ろしい思想の嫌悪すべき一団を心の中に隠し、憤怨の情に満ちて、ディーニュの町に入って行ったあの日の自分と、同じではないか。

彼は震えながら自分に言った。「ああ、自分も再びあんなになるのか。」

その男は少なくとも六十歳くらいに見えた。何ともいえぬ粗暴で愚鈍なこじれた様子をしていた。

扉の音で、そこにいた人たちは横に並んで彼に道を開いた。裁判長は頭を下げ、入ってきたのはモントルイュ・スュール・メールの市長であることを知って、会釈をした。検事は公務のため一度ならずモントルイュ・スュール・メールに行ったことがあり、マドレーヌ氏を知っていたので、彼の姿を見て同じく会釈をした。彼の方ではそれにほとんど気づかなかった。彼は一種の幻覚の囚人となっていた。彼は周囲を見渡した。

数人の判事、一人の書記、多くの憲兵、残忍なほど好奇な人々の群れ、彼は昔二十七年前にそれらを一度見たことがあった。そして今再びそれらの凶悪なものに出会った。それはそこにあり、動いており、存在していた。それはもはや、記憶の中のものでなく、瞑想の投影ではなかった。現実の憲兵、現実の判事、現実の群集、肉と骨の現実の人間だった。いまや万事終わったのである。過去の異常なる光景が、現実の恐ろしさをもって周囲に再び現れよみがえってくるのを彼は見た。

すべてそれらのものは彼の前に口を開いていた。

彼は恐怖し、目を閉じ、そして魂の奥底で叫んだ。「いや決して!」

しかも、彼のすべての考えを戦慄させ、彼をほとんど狂わせる悲痛な運命の悪戯によって、その法廷にいるのは他の彼自身であった。裁判を受けている男を、人々は皆ジャン・ヴァルジャンと呼んでいた。


生涯で最も恐ろしかったあの瞬間が、再び自分の影によって演出されているのを、彼は目の前で見た。なんと異様な光景だろう。

すべてがそこにあった。同じ機関、同じ夜の時刻、判事や兵士、傍聴者のほとんど同じ顔が。ただ、裁判長の頭の上に一つの十字架像がかかっていた。それだけが彼の処刑のときの法廷になかったものである。彼が判決を受けたとき、神は存在しなかった。

彼の後ろに一つの椅子があった。彼は人に見られるのを恐れて、その上に身を落ち着けた。席について彼は、判事席の上に積み重ねてあった厚紙の影に隠れて、広間全体の人々の前に自分の顔を隠した。もう人に見られずにすべてを見ることができた。しだいに彼は落ち着いてきた。再び現実のことを十分に感じるようになった。外部のことを聞き取れる平静を得てきた。

バマタボア氏も陪審員の一人としてそこにいた。

彼はジャヴェルを探したが、見つからなかった。証人の席はちょうど書記のテーブルに隠れていた。そしてまた、前に言ったとおりその広間は十分に明るくなかった。

彼が入ってきたとき、被告の弁護士がその弁論を終えようとしているところだった。人々の注意は極度に緊張していた。事件は三時間も前から続いていた。三時間の間、人々は、その男、その曖昧な奴、極端にばかなのか極端に巧妙なのかわからない浅ましい奴が、恐るべき真実の重荷の下にしだいに屈してゆくのを眺めていたのである。読者の既に知るとおり、その男は一人の浮浪人であって、ピエロンの園といわれているある果樹園のリンゴの木から、熟したリンゴのなっている枝を一本折って持ち去るところを、すぐそばの畑の中で捕えられたのである。で、その男はいったい何という奴であるか? 調査が行われた。

証人らの供述も求められたが、みなその言葉は一致していた。事件は初めから明瞭であった。起訴は次のとおりだった。――この被告は、単に果実を盗んだ窃盗犯人たるのみではない。被告は実に無頼漢であり、監視違反の再犯者であり、前徒刑囚であり、最も危険なる悪漢であり、長く法廷よりさがされていたジャン・ヴァルジャンと呼ばれる悪人である。彼は八年前ツーロンの徒刑場を出るや、プティー・ジェルヴェーと呼ばれるサヴォアの少年より大道において強盗を行なった。これ実に刑法第三百八十三条に規定される犯罪である。これについては、人物証明の成るを待ってさらに追及すべきである。彼は今新たに窃盗を働いた。これは実に再犯である。

よってまず新たなる犯罪について処罰し、更に再犯については後に裁くべきである。――この起訴に対して、また証人らの一様なる供述に対して、被告は何よりもまず驚いたようだった。彼はそれを否定しようとする身振りや手つきをし、また天井を見つめていた。彼はかろうじて口をきき、当惑した返答をしたが、頭から足先までその全身は否定していた。彼は自分を包囲して攻め寄せる知力の前で白痴のように、自分を捕えようとする人々の中にあって、まるで局外者のようであった。けれどもそれは彼の未来に関する最も恐るべき問題であった。真実らしさは各瞬間ごとに増していった。

そして公衆は、おそらく彼自身よりもなおいっそうの懸念をもって、不幸なる判決がしだいに彼の頭上にかぶさって来るのを眺めた。もし同一人であることが認定され、後にプティー・ジェルヴェーの事件までが判決されるならば、徒刑は愚か死刑にまでもなりそうな情勢だった。しかるにその男はいかなる奴であったか? 彼の平静はいかなる性質のものであったか。愚鈍なのかまたは狡猾なのか。彼はあまりによく理解していたのか、または何もわかっていなかったのか。そういう疑問に、公衆は二派に分かれ、陪審員も二派に分かれているらしかった。その裁判には、恐るべき困惑があった。その悲劇は単に陰惨なるばかりでなく、また朦朧としていた。


弁護士は地方的な言辞で雄弁に論じた。その地方的言辞は、ロモランタンやモンブリゾンにおいてはもちろん、パリにおいても、昔あらゆる弁護士によって使われたものであるが、今日では一種のクラシックとなって、ただ法官の公の弁論にのみ使用され、荘重な音と堂々たる句法によってそれによく調和している。夫や妻を配偶者と言い、パリを学芸および文明の中心地と言い、王を君主と言い、司教を聖なる大司祭と言い、検事を能弁なる訴訟解釈者と言い、弁論をただいま拝聴する言語と言い、ルイ十四世時代を偉大なる世紀と言い、劇場をメルポメネの殿堂と言い、王家を王のおごそかなる血統と言い、演奏会を音楽の盛典と言い、師団長を何々の高名なる勇士と言い、神学校の生徒をかの優しきレヴィ人と言い、新聞紙に帰せられる錯誤を新聞機関の欄内に毒を注ぐ欺瞞と言い、その他種々の言い方を持っている。――ところで弁護士はまずリンゴの窃盗事件の説明から始めた。美しい語法では説明が難しい事柄である。しかしベニーニュ・ボシュエもかつて祭文のうちにおいて一羽の牝鶏の事に説きおよぼさなければならなかった、しかも彼は見事にそれをやってのけたのだった。今弁護士は、リンゴの窃盗は具体的には少しも証明されていない旨を立論した。――弁護人として彼がシャンマティユーと呼び続けていたその被告は、壁を乗り越えもしくは枝を折るところを誰からも見られたのではない。――彼はただその枝(弁護士は好んで小枝と呼んだ)を持っているところを押さえられただけだった。――しかして彼は、地に落ちているのを見つけて拾ったまでだと言っている。

どこにその反対の証拠があるのか?――おそらくその一枝はある盗人によって、壁を越えた後に折られ盗まれ、見つかってそこに捨てられたものであろう。疑いもなく、盗人は確かに存在した。――しかしその盗人がシャンマティユーであったという何の証拠があるか。ただ一つ、徒刑囚であったという資格については、不幸にも弁護士も否定しなかった。被告はファヴロールに住んでいたことがある。被告はその地で枝切り職をやっていた。シャンマティユーという名前は本来ジャン・マティユーであったであろう。それは事実である。それから四人の証人も、シャンマティユーを囚人ジャン・ヴァルジャンであると躊躇することなく確認している。それらの徴証とそれらの証言に対しては、弁護士も被告の否認、利己的な否認しか持ち出せなかった。しかし、たとい彼がもし囚徒ジャン・ヴァルジャンであったとしても、それは彼がリンゴを盗んだ男であるという証拠になるであろうか?それは要するに推定であって、証拠ではない。

しかし被告は「不利な態度」を取った。それは事実で、弁護士も「誠実なところ」それを認めざるを得なかった。被告は頑固にすべてを否認した、窃盗もまた囚人の肩書きをも。だがこの後者の方は確かに自白した方がよかったであろう。そうすればあるいは判事らの寛大な処置を買い得たかもしれなかった。弁護士もそれを彼に勧めておいたのであった。しかし被告は頑強にそれを否認した。きっと何も自白しなければすべてを救い得ると思ったのであろう。それは明らかに誤りであった。しかしかく思慮の足りないところもよろしく考量すべきではあるまいか。この男は明らかに愚かである。

徒刑場における長い間の不幸、徒刑場を出てからの長い間の困苦、それは彼を愚鈍にしてしまったのである。云々。彼は拙い弁解をしたが、それは処刑すべき理由にはならない。ただプティー・ジェルヴェーの事件に至っては、弁護士もそれを論議すべきものを持たなかった。それはまだ訴件のうちには入っていなかったのである。結局、被告がジャン・ヴァルジャンと同一人物であると認定されるにしても、監視違反囚に対する警察法にのみ彼を問い、再犯囚に対する重罪に処せないようにと、弁護士は陪審員および法官一同に向かって懇願しながら、その弁論を結んだ。

検事は弁護士に対して反駁した。彼は検事の通性として辛辣でまた華麗であった。


彼は弁護士の公明を祝し、さらにその公明を巧みに利用した。彼は弁護士が認めたすべての点によって被告を難じた。弁護士は被告がジャン・ヴァルジャンであることを認めたようであった。彼はその点を捉えた。被告はゆえにジャン・ヴァルジャンである。この点は既に起訴の中に明らかで、もはや抗弁の余地はない。そこで検事は巧みに論法を換えて、犯罪の根本および原因にさかのぼり、ロマンティック派の不道徳を痛烈に論じた。ロマンティック派は当時、オリフラム紙やコティディエンヌ紙の批評家らが与えた悪魔派の名の下に起こりかけていたのだった。検事はいかにも真実らしく、シャンマティユー、いや換言すればジャン・ヴァルジャンの犯罪は、その敗徳文学の影響であるとした。その考察が済むと、彼は直接ジャン・ヴァルジャンに鋒先を向けた。

ジャン・ヴァルジャンとはいったい何物であるか? 彼はそこでジャン・ヴァルジャンを詳細に描写した。地から吐き出された怪物など。それらの描写の模範は、これをテラメーヌ(訳者注 ラシーヌの戯曲フエードル中の人物)の物語の中に求められる。それは悲劇には無用なものであるが、常に法廷の雄弁には大いなる貢献をなすものである。傍聴人や陪審員たちは震え上がった。その描写が終わると、彼は翌朝のプレフェクチュール紙の大なる賛辞を勝ち取るために抑揚よく言を進めた。――そして被告は実にかくのごとき人物である、云々。浮浪人であり、乞食であり、生活の方法を持たない奴である、云々。――被告は過去の生涯によって悪事になれ、入獄によっても少しもその性質が改まらなかったのである。プティー・ジェルヴェーに関する犯罪はそれを証して余りある、云々。――被告は不敵な奴である。大道において、乗り越えた壁のすぐ近くで、盗める品物を手に持っていて、現行犯として押さえられ、しかもなおその現行犯を、窃盗を、侵入を、すべてを否認し、自らの名前までも否認し、同一人物であることまでも否認している。しかし吾人はここに一々持ち出さないが、幾多の証拠がある。それを外にしても、四人の証人が認めている。すなわち、ジャヴェル、あの清廉な警視ジャヴェル、及び被告の昔の汚辱の仲間、ブルヴェー、シュニルディユー、コシュパイユの三人の囚人。その一致した恐るべき証言に対して、彼はいかなる反論を持っているのか? 彼はただ単に否定するだけだった。いかなる頑強さぞ! 陪審員の皆さん、皆さんは公平な判断を下すことと思う、云々。――検事がこう語っている間、被告は多少感嘆を交じえた驚きをもって呆然と口を開いて聞いていた。人間の力でよくもかく語り得るものだと彼は驚きを隠せなかった。

時々、論告の最も溌剌たる瞬間、自ら抑えきれない能弁が華麗なる文句の中にあふれ出て、被告を暴風雨のごとく包囲する瞬間には、彼は右から左へ、左から右へとおもむろに頭を動かした。それは一種の悲しい無言の抗弁であり、彼は弁論の初めからそれだけで自ら満足していた。彼の最も近くに立会っている人々は、彼が二、三度口の中で言うのを聞いた。「バルーさんに尋ねなかったからこんなことになるんだ!」――その愚昧な態度を検事は陪審員らに注意した。それは明らかに故意にやっているもので、被告の痴鈍を示すものではなく、実に巧妙さと狡猾さを示すものであり、法廷を欺く常習性を示すものであり、被告の根深い奸悪を現わすものである。そして彼は、プティー・ジェルヴェーの事件はこれを保留しておき、厳刑を請求しながら弁論を終えた。

ここに厳刑というのは、読者の知るとおり、無期徒刑を指すのである。

弁護士はまた立ち上がって、まず「検事殿」にそのみごとな弁舌を祝し、次にできる限りの答弁を試みた。しかし彼の論鋒は鈍っていた。地盤は明らかに彼の足下に崩れかけていた。

 

10.否認の様式

弁論を終結すべき時はきた。裁判長は被告に立つよう命じて、例のごとく尋ねた。「被告はなお何か申し開きをすることはないか。」

男は立ったまま手に持っている汚れた帽子を捻じっていた。裁判長の言葉も聞こえなかったらしい。

裁判長は再び同じ問いをかけた。

今度は男にも聞こえた。彼はその意味を理解したらしく、目が覚めたというような身振りをし、周囲を見回し、公衆や憲兵、自分の弁護士、陪審員、法官らを眺め、腰掛けの前の木柵の縁にその大きな拳を置き、なお見回して、突然検事の上に目を据えて語り始めた。それはまるで爆発のようだった。その言葉は支離滅裂で、急激で、互いに衝突し混乱して、口からほとばしり出て、一時に先を争って出てくるかのようだった。彼はこう言った。

「私の言うのはこうだ。私はパリで車大工をしていた。バルー親方の家だ。それは大変な仕事だ。車大工というものは、いつも戸外で、中庭で、仕事をしなくちゃならない。親切な親方の家では仕事場でやるんだが、決して閉ざされた場所じゃない。広い場所が必要だからだ。冬は非常に寒く、自分で腕を叩いて暖を取るほどだった。しかし親方はそれを喜ばない。時間が無駄になるというんだ。舗石の間には氷が張っている寒い日に鉄を扱うのは辛い。すぐに弱ってしまう。そんなことをしていると、まだ若いうちに年をとってしまう。四十になる頃にはもうおしまいだ。私は五十三歳で、非常に辛かった。それに職人というものは意地が悪いんだ! 年が若くなくなると、もう人並みの扱いはしないで老耄奴めがと言いやがる。私は一日に三十スーよりもらわなかった。給金をできるだけ安くしようというのだ。

親方は私が年をとっているのをいいことにしたんだ。それに私は、娘が一人いた。川の洗濯女をしていたが、その方でも少ししか取れなかった。でも二人で、どうにかやってはゆけた。娘の方も辛い仕事だった。雨が降ろうが、雪が降ろうが、身を切るような風に吹かれて、腰まである桶の中で一日働くんだ。氷が張っても同じだ。洗濯はしなければならない。シャツを余分に持っていない人がいるんだ。後を待っている。すぐに洗わなければ流行はやらなくなってしまう。屋根板がよく合わさっていないので、どこからでも雨が漏る。上着や下着は皆びしょ濡れだ。身体にまで染み込んでくる。娘はまた、アンファン・ルージュの洗濯場でも働いたことがある。そこでは水が鉄管から来るので、桶の中にはいらないですむ。前の鉄管で洗って、後ろの盥でゆすぐんだ。戸がしめてあるからそんなに寒くはない。しかし恐ろしい熱い蒸気が吹き出すから、目を悪くしてしまう。娘は夕方七時に帰ってきて、すぐに寝てしまう。そんなに疲れるんだ。亭主はそれをなぐる。

そのうち娘は亡くなってしまった。私どもは非常に不幸だった。娘は夜遊びをしたこともなく、おとなしいいい子だった。一度カルナヴァルのしまいの日に、八時に帰ってきて寝たことがあったばかりだ。そのとおりだ。私は真実を話している。調べたらすぐわかることだ。ああそうだ、調べるといったところで、パリは海のようなものだ。だれがシャンマティユーじいなんかを知っているだろう。しかしバルーさんなら知っている。バルーさんの家に聞いてみなさい。その上で私をどうしようと言いなさるのかね。」

男はそれで口をつぐんで、なお立っていた。彼はそれだけのことを、高く、早く、嗄れた息切れの声で、いら立った粗野な率直さで言ってのけた。ただ一度、群集の中のだれかにあいさつするため言葉を途切らしただけだった。やたらにつかんでは投げ出したようなその断定の事柄は、吃逆のように彼の口から出た。そして彼はその一つ一つに、木を割っている樵夫のような手つきをつけ加えた。彼が言い終わった時、傍聴人は失笑した。彼はその公衆の方を眺めた。そして皆が笑っているのを見て、訳もわからないで、自分でも笑い出した。

それは彼にとって非常に不利であった。

注意深くまた親切な裁判長は、口を開いた。


彼は陪審員諸君に、「被告が働いていたという以前の車大工親方バルーという者を召喚したが出頭しなかった、破産して行方がわからないのである」と告げた。それから彼は被告の方に向いて、自分がこれから言うことをよく聞くようにと注意し、そして言った。「その方にはよく考える必要があるのだぞ。きわめて重大な推定がその方の上にかかったのだ。そして最悪な結果をきたすかも知れないのだ。被告、その方のために本官は最後にもう一度言っておく。次の二つの点を明瞭に説明してみよ。第一に、その方はピエロンの果樹園の壁を乗り越えて枝を折り、リンゴを盗んだのか、否か。言い換えれば、侵入して窃盗をしたのか、否か。第二に、その方は放免囚ジャン・ヴァルジャンであるか、否か。」

被告はそれをよく理解し、答うべきことを知っているかのように、悠然と頭を振った。彼は口を開き、裁判長の方を向き、そして言った。「まず……。」

それから彼は自分の帽子を見、天井を眺め、それきり黙ってしまった。

「被告、」と検事は鋭い声で言った、「注意せい。その方は審問には何も答えない。その方の当惑を見ても罪は十分明らかだ。みな明瞭にわかっているのだぞ。その方はシャンマティユーという者ではない。徒刑囚ジャン・ヴァルジャンである。初め母方の姓を取ってジャン・マティユーという名の下に隠れていたのだ。その方はオーヴェルニュに行ったことがある。その方はファヴロールの生まれで、そこで枝切り職をやっていた。それからまた、その方がピエロン果樹園に侵入して熟したリンゴを盗んだことも明白である。陪審員諸君も十分認められることと思う。」

被告は再び席についていた。しかし検事が言い終わると急に立ち上がって叫んだ。「旦那はわるい人だ、旦那は! 私は初めから言いたかったのだが、どう言っていいかわからなかったのだ。私は何も盗んではいない。私のようなものは、毎日食べなくてもいいのだ。私はその時、アイイーからやってきた。その田舎を歩いていた。夕立の後で田圃は黄色くなっていた。池の水はいっぱいになっていた。路傍には小さな草が砂から頭を出しているだけだった。私はリンゴのなっている枝が折れて地に落ちているのを見つけた。私はその枝を拾った。それがこんな面倒なことになろうとは知らなかったのだ。私はもう三月も牢にはいっている。方々引き回された。それから、私は何と言っていいかわからないが、旦那方は私を悪く言って、返事をしろ! と言いなさる。憲兵さんは親切に、私を肘でつついて、返事をしろと小声で言った。

しかし私は何と説き明かしていいかわからない。私は学問を受けていなかった。つまらない男だ。それがわからないと言うのは旦那方の方が間違っているんだ。私は盗みはしなかった。落ちているものを地から拾い上げたまでだ。旦那方はジャン・ヴァルジャン、ジャン・マティユーと言いなさる。私はそんな人たちは知らない。それは村の人かも知れない。私はロピタル大通りのバルーさんの家で働いていたんだ。私はシャンマティユーという者だ。よくも旦那方は私の生まれた所まで言ってきかしなさる。だが自分ではどこで生まれたか知らないんだ。生まれるに家のない者もいる。その方が便利かもわからないんだ。

私の親父と母親とは大道を歩き回っている者だったに違いない。だがそれも私はよく知らない。子供の時私は小僧と言われていた、そして今では爺さんと人が言ってくれる。それが私の洗礼名だ。どう考えようとそれは旦那方の勝手だ。私はオーヴェルニュにもいたし、ファヴロールにもいた。だが、オーヴェルニュやファヴロールにいた者は皆牢にいた者だというのかね。私は泥棒などしていないと言っている。私はシャンマティユー爺というものだ。私はバルーさんのうちにいた。ちゃんと住居があったんだ。旦那方は訳もわからないことを言って私をいじめなさる。なぜそう一生懸命になって私を皆でつけ回しなさるのかね!」

検事はその間立ったままでいたが、裁判長へ向かって言った。


裁判長殿、被告は曖昧さを持ちながらも非常に巧妙な否認を試み、白痴として通ろうとしている。しかし、そうは行かない。私たちは被告の否認に対して、再び囚徒ブルヴェー、コシュパイユ、シュニルディユー、そして警視ジャヴェルをこの場に召喚することを求めたい。

「検事に注意するが、」と裁判長は言った。「警視ジャヴェルは公用によって隣郡の街に帰るため、供述を終えて直ちに法廷を去り、この街をも去っている。検事および被告弁護士の同意を得て、それを彼に許可したのである。」

「裁判長殿、まさにそのとおりです。」と検事は言った。「そしてジャヴェル君の不在により、私は彼が二、三時間前この席において供述したところのことを、陪審員諸君の前に再び持ち出したい。ジャヴェルは立派な人物であり、下役であるが、非常に重要な役目を厳粛に果たす男である。そして彼は実にこう述べたのである。『私は被告の否認を打ち消すための心理的推定や具体的証拠さえも必要としません。私はこの男を十分に見識しています。この男はシャンマティユーという者ではありません。この男は極悪なる恐るべき徒刑囚ジャン・ヴァルジャンであります。刑期を終えてこの男を放免するのも非常に遺憾なほどでした。

彼は加重情状付き窃盗のために十九年間の徒刑を受けたのです。その間に五、六回の脱獄を企てました。プティー・ジェルヴェーに関する窃盗並びにピエロンに関する窃盗のほかに、私はなお、故ディーニュの司教閣下の家においてもある窃盗を働いたことを疑っています。私はツーロンの徒刑場において副看守をしていた時に、彼をしばしば見たことがあります。私はこの男を十分に識っていることをここに繰り返して申し上げたいのであります。』」

そのきわめて簡明な申し立ては、公衆および陪審員に強い印象を与えたらしかった。検事はジャヴェルを除いた三人の証人、ブルヴェー、シュニルディユー、コシュパイユを再び呼び寄せて厳重に尋問すべきだと主張して席に着いた。

裁判長は一人の守衛に命令を伝えた。直ちに証人の室の扉は開かれた。守衛は万一の場合手助けとなる憲兵を一人伴って、囚徒ブルヴェーを導いてきた。傍聴人らは不安に息を凝らし、彼らのすべての胸はただ一つの心を持っているかのように皆一時におどった。

前囚徒ブルヴェーは、中央監獄の暗灰色の上衣を着ていた。六十歳ばかりの男で、事務家らしい顔つきと悪者らしい様子を備えていた。事務家の人相と悪者の様子とは互いに相応することがあるものである。彼はある新しい悪事で再び監獄に入ったのであるが、いくらか取り立てられて牢番になっていた。「奴は何かの役に立ちたいと思っているらしい」と上役どもから言われていた。教誨師も彼の宗教上の平素については良く言っていた。もちろんそれは王政復古後のことであるのは言うまでもないことである。

「ブルヴェー、」と裁判長は言った。「その方は賤しい刑を受けた身であるため、宣誓をすることはできないが……。」

ブルヴェーは目を伏せた。

「しかしながら、」と裁判長は続けた。「法律によって体面を汚された者のうちにも、神の慈悲によって、なお名誉と公正の感情はとどまり得る。今この大切な時に本官はその感情に訴えたい。なおその方のうちに、本官の希望するごとく、その感情があるならば、本官に答える前によく考えてみよ。一方には、その方の一言によって身の破滅をきたすかもしれない男があり、他方には、その方の一言によって公明になるかもしれない正義があるのだ。これは重大な場合である。誤解だと信じるならばその方はいつでも前言を取り消してよろしい。――被告、起立せよ。――ブルヴェー、よく被告を見、記憶をたどって、被告はその方の徒刑場の昔の仲間ジャン・ヴァルジャンであると認めるかどうか、その方の魂と良心をもって申し立ててみよ。」

ブルヴェーは被告を眺めた。それから法官の方へ向き直った。


「そうです、裁判長殿。最初に彼を認めたのは私です。私は意見を変えません。この男はジャン・ヴァルジャンです。1796年にツーロンに入り、1815年にそこを出ました。今、ばかな様子をしていますが、それは老いているからでしょう。徒刑場では狡猾な男でした。私は確かにこの男を覚えています。」

「席につけ。」と裁判長は言った。「被告は立っておれ。」

シュニルディユーが導かれてきた。その赤い獄衣と緑の帽子が示すように、無期徒刑囚であった。彼はツーロンの徒刑場で服役していたが、その事件のために呼び出されたのである。いらいらした顔にしわのよった、弱々しい身体で、色は黄褐色、鉄面皮で落ち着きのない、五十歳ばかりの背の低い男でした。手足や身体には病身者らしいところがあり、目つきには非常な鋭さがあった。徒刑場の仲間らは彼をジュ・ニ・ディユーと呼んでいた。(訳者注 吾神を否定するという意味であってシュニルディユーをもじったものである)

裁判長はブルヴェーに言ったのとほとんど同じ言葉を彼に言った。裁判長が彼に、その汚辱のために宣誓する権利がないことを注意した時、彼は頭を上げて、正面の群集を見つめた。裁判長は彼によく考えるように言って、それからブルヴェーに尋ねたとおり、彼がなお被告を知っていると主張するかどうかを尋ねた。

シュニルディユーは放笑した。「なあに、知ってるかって!私どもは五年も同じ鎖につながれていたんだ。おい爺さん、何をそう口をとがらしているんだ。」

「席につけ。」と裁判長は言った。

守衛はコシュパイユを連れてきた。シュニルディユーと同じく徒刑場から呼び出された、赤い獄衣を着ている無期徒刑囚だった。ルールドの田舎者で、ピレネー山の山男だった。彼は山中で羊の番をしていましたが、羊飼いから盗賊に堕ちたのです。被告同様の野人で、かつなおいっそう愚鈍らしかった。自然から野獣に作られ、社会から囚人に仕上げられた不幸な人々の一人だった。

裁判長は感慨深い荘重な言葉で、彼の心を動かそうとしました。そして前の二人にしたように、前に立っている男を何らの躊躇も惑いもなく認定し続けるかどうかを尋ねた。「こいつはジャン・ヴァルジャンだ。」とコシュパイユは言った。「起重機のジャンとも言われていた。そんなに力が強かったんだ。」

明らかに真剣に誠実に行われたその三人の断定を聞くたびに、傍聴人の間には被告の不利を予示するささやきが起こった。新しい証言が前の証言に加わるごとに、そのささやきはますます大きくなり、長くなっていった。被告の方は、それらの証言を例のびっくりしたような顔つきで聞いていた。反対者から見ると、それは彼の自己防衛の手段であった。第一の証言に、両側にいた二人の憲兵は彼が口のうちでつぶやくのを聞いた。「なるほど彼奴がその一人だな!」第二の証言の後、彼はほとんど満足らしい様子ですこし高い声で言った、「結構だ!」三番目には彼は叫んだ、「素敵だ!」

裁判長は彼に言葉をかけた。「被告、ただいま聞いたとおりだ。何か言うことがあるか。」

彼は答えた。「私は、素敵だ!と言うのだ。」


喧騒が公衆の中に起こり、ほとんど陪審員にまで及んだ。その男がもはや逃れられないのは明白だった。

「守衛たち、」と裁判長は言った。「場内を取り静めよ。本官はこれより弁論の終結を宣告する。」

その時、裁判長のすぐ近くに何か動くものがあった。人々は一つの叫び声を聞いた。「ブルヴェー、シュニルディユー、コシュパイユ! こちらを見ろ。」

その声を聞いた者は皆、凍りつくような感覚に襲われた。それほど悲しく、また恐ろしい声であった。人々の目は、その声のした一点に釘付けになった。法官席の後ろに座っている特別傍聴人の一人が、立ち上がって、判事席と法廷とをへだてる半戸を押し開き、広間の中央に立っていた。裁判長も検事もバマタボア氏も、その他多くの人々がその男を認め、同時に叫んだ。「マドレーヌ氏!」

 

11.シャンマティユーますます驚く

それは実際マドレーヌ氏であった。書記席のランプは彼の顔を照らしていた。彼は手に帽子を持っていた。その服装には少しも乱れたところはなく、フロックはよくボタンがかけられていた。ひどく青ざめて軽く震えていた。アラスに着いた頃はまだ半白であったその髪の毛も、今はまったく白くなっていた。そこにいた一時間前から白くなったのである。

人々は皆頭を上げた。その激情の光景は名状すべからざるものだった。聴衆のうちには一瞬躊躇があった。あの声はいかにも痛烈で、そこに立っている人はいかにも平静で、初めは何のことだか人々にはわからなかった。誰がいったい叫んだのかわからなかった。あれほど恐ろしい叫びを発したのが、その落ち着いた人だとは誰も思えなかった。

がその不決定な時間は数秒しか続かなかった。裁判長や検事が一言を発する間もなく、憲兵や守衛が身を動かす間もなく、まだその時までマドレーヌ氏と呼ばれていたその人は、証人コシュパイユ、ブルヴェー、シュニルディユー、三人の方へ進んで行った。

「お前たちは私を知らないか?」と彼は言った。

三人はびっくりしたままで、頭を振って知らない旨を示した。コシュパイユは恐れて挙手の礼をした。マドレーヌ氏は陪審員および法官の方へ向いて、穏やかな声で言った。「判事諸君、被告を放免していただきたい。裁判長殿、私を捕縛していただきたい。あなたの探していらっしゃる人物は、彼ではない、この私である。私がジャン・ヴァルジャンである。」

皆息をひそめた。最初の驚愕の動揺に次いで、墳墓のような沈黙がきた。人々はその広間の中に、何か偉大なることが起こる時、群集を襲うあの宗教的恐怖の一種を感じた。

そのうち、裁判長の顔には同情と悲哀の色が浮かんだ。彼は検事とすみやかな合い図をかわし、陪席判事らと低声な数語を交じえた。彼は公衆の方に向かって、すべての人にその意中がわかる調子で尋ねた。「このうちに医者はおりませんか。」

検事は口を開いた。「陪審員諸君、今法廷を乱したこの不思議な意外な出来事は、ここに説明を待つまでもない感情を、諸君並びに私たちに与える。諸君は皆少なくとも世間の名声によって、名誉あるモントルイユ・スュール・メールの市長マドレーヌ氏を御存じであることと思います。もしこの中に医者がおられるならば、マドレーヌ氏を助けてその自宅に送り届けていただけるよう、私たちは裁判長殿とともに願うものであります。」

マドレーヌ氏は検事をして終わりまで言わせなかった。彼は温厚と権威に満ちた調子で検事の言葉を遮った。彼が発した言葉は次のとおりであった。そしてこれは、その光景を目撃した者の一人が裁判後直ちに書きつけておいた原文どおりのものであって、それを聞いた人の耳には約四十年後の今日までまだはっきりと残っているそのままのものである。


「私は、検事殿、あなたに感謝します。しかし、私は気が狂ったのではありません。今におわかりになるでしょう。あなたは非常な誤りを犯されようとしていたのです。この男を放免してください。私はただ自分の義務を果たすのです。私はこの事件の罪人です。この事件を明確に見通せる者はただ私一人です。私はあなたに事実を語っています。今私のなすことは、天にいます神が見ていられる。それで十分です。私はここにいるから、あなたは私を捕縛することができます。とはいえ、私は最善を尽くしてきたのです。私は違う名前のもとに身を隠し、富を得て、市長になりました。私は正直な人々の列に再び加わろうと欲しました。しかし、それはできないことのように思われます。要するに、私には今語れないさまざまなことがあります。ここに私は自分の一生を物語ろうとは思いません。他日すべてわかるでしょう。

私は司教閣下のものを盗みました。それは事実です。私はプティー・ジェルヴェーのものを盗みました。それも事実です。ジャン・ヴァルジャンなる者はあわれむべき悪漢であるというのは道理です。しかし、おそらく罪は彼にのみあるのではありません。判事諸君、しばらく聞いていただきたい。私のように堕落した人間は、天に対して不平を言う資格もなく、また社会に対して意見を述べる資格もないでしょう。しかしながら、私がぬけ出そうと試みたあの汚辱は、はなはだ人を害するものです。徒刑場は囚人を生み出す場所です。少しくこの点を考えていただきたい。徒刑場に入る前、私は知力の乏しい一人のあわれな田舎者で、一種の白痴でした。しかし、徒刑場は私を一変させてしまった。愚鈍であった私は、悪人となった。一個の木偶でしかなかった私は、危険な人物となった。

そして、苛酷が私を破滅させたのと同じように、その後、寛容と親切が私を救ってくれたのです。いや、しかし、諸君は私がここに言うことをおわかりにならないでしょう。諸君は私の家の暖炉の灰の中に、七年前私がプティー・ジェルヴェーから盗んだ四十スー銀貨を見いだされるでしょう。私はもうこれ以上何も申すことはありません。私を捕縛していただきたい。ああ、検事殿は頭を振っていられる。あなたはマドレーヌ氏は気が狂ったと言われるのですか。あなたは私の言うのを信じないのですか!それははなはだ困ることです。少なくともこの男を処刑せられないようにしていただきたい。なに、この人々は私を知らないというのか。ジャヴェルがここにいないのを私は残念に思う。彼ならば、必ず私を認めてくれるだろう。」

それらの言葉が発せられた調子の中には、親愛にして悲痛な憂鬱がこもっていた様は、到底これを伝えることはできない。

彼は三人の囚人の方へ向きました。「おい、私の方ではお前たちを覚えている!ブルヴェー!お前は思い出さないのか?……」彼は言葉を切って、ちょっと躊躇しました。それから言った。「お前が徒刑場で使っていたあの弁慶縞の編みズボンを、お前は覚えていないか。」

ブルヴェーは愕然とし、そして恐る恐る彼を頭から足先まで見おろした。彼は続けて言った。「シュニルディユー、お前は自分でジュ・ニ・ディユーと呼んでいたが、お前には右の肩にひどい火傷の跡がある。T・F・Pという三つの文字を消すために、火のいっぱい入った火鉢にその肩を押し当てたのだ。しかし文字はやはり残っている。どうだ、そのとおりだろう。」

「そのとおりです。」とシュニルディユーは言った。

彼はコシュパイユに向かって言った。「コシュパイユ、お前には左の腕の肘の内側に、火薬で焼いた青い文字の日付がある。それは皇帝のカーヌ上陸の日で、一八一五年三月一日というのだ。袖をまくってみろ。」

コシュパイユは袖をまくった。すべての人々の目はその露わな腕の上に集まった。一人の憲兵はランプを差し出した。日付はそこにあった。

その不幸な人は傍聴人および判事らの方へ向き直った。顔には微笑を浮かべていた。その微笑を見た者は、今なお思い出しても心の痛むのを感じる。それは勝利の微笑であり、同時に絶望の微笑でもあった。


「よくおわかりでしょう」と彼は言った。「私はジャン・ヴァルジャンです。」

その室の中には、もはや判事も検事も憲兵もいなかった。ただじっと見守る目と感動した心ばかりだった。誰も自分のなすべき職分を忘れていた。検事は求刑するためにそこにいることを忘れ、裁判長は裁判を統べるためにそこにいることを忘れ、弁護士は弁護するためにそこにいることを忘れていた。驚くべきことに、何の質問もされず、何の権威も手を出せなかった。およそ荘厳な光景の特質は、すべての人の魂をとらえ、すべての目撃者を単なる傍観者にさせるところにある。おそらく誰も、その時感じたことを自ら説明することはできなかっただろう。誰もただ、そこに偉大な光が輝いているのを見たとしか言えなかっただろう。人々は皆、眩惑されたのを内心に感じた。

明らかに人々は眼前にジャン・ヴァルジャンを見た。それは光を投げかけた。その男の出現は、一瞬前まであれほど朦朧としていた事件を明白にするのに十分だった。それ以上何の説明もなく、すべての人々は、自分のために刑に処せられようとする一人の男を救うために身を投げ出した彼の簡単な、しかも壮麗な行為を、あたかも電光に照らされたかのように直ちに一目で理解した。その詳細、逡巡、多少の反対の試みなどは、その広大なる燦然たる一事の中にのみ去られてしまった。

その印象はやがてすぐに消え去ったが、その瞬間には抗えない力を持っていた。「私はこれ以上法廷を乱したくありません」とジャン・ヴァルジャンは言った。「諸君は私を捕縛されないでしょうから、私は引き取ります。私はいろいろなすべき用を持っています。検事殿は、私がどういう者であるか、私がどこへ行くかを知っていられる。いつでも私を捕縛することができるでしょう。」

彼は出口の方へ進んで行った。一言声を発する者もなく、手を差し延べて引き止めようとする者もなかった。皆身を遠ざけた。群集を退かせ、一人の前に道を開かせる聖なるものが、その瞬間に存在した。彼はおもむろに足を運び、人々の間を通って行った。誰が扉を開いたか知る者はなかったが、彼がそこに達した時、扉は確かに開かれていた。そこまで行って、彼は振り返って言った。「検事殿、御都合でいつでもよろしいです。」

それから彼は傍聴人の方へ向かって言った。「諸君、ここに列席された諸君、諸君は私をあわれむに足るべきものと思われるでしょう。ああ、しかし私は、こういうことをなそうとする瞬間の自分がいかようであったかと思う時、自分はうらやむに足るべきものと思います。しかしながら、かような事の起こらなかった方を私はむしろ望みたかったのであります。」

彼は出て行った。そして扉は開かれた時と同じように、誰からともなく閉ざされた。荘厳なる何かを行う者は、群集のうちの誰かによって常に奉仕されるものである。

それから一時間とたたないうちに、陪審員らの裁決は、あのシャンマティユーをいっさいの起訴から釈放した。シャンマティユーは直ちに放免されて、皆気狂いばかりだと考え、またその光景について少しも訳がわからないで、呆然として帰って行った。

 

 

第一部 ファンティーヌ  第八編 反撃

 

1.マドレーヌ氏の頭髪を映せし鏡

夜は明け初めていた。ファンティーヌは、楽しい幻を見続けた熱の高い不眠の一夜を過ごしたのだった。朝方、彼女は眠りについた。夜通し彼女についていたサンプリス修道女は、その間を利用して規那皮(きなひ)の新しい薬をこしらえに行った。尊むべき彼女はしばらく病舎の薬局に入って、夜明けの薄暗い光の中で、薬剤や薬びんの上近く身をかがめてそれを見わけていた。と、ふと彼女は頭を巡らせ、軽い叫び声を立てた。マドレーヌ氏が彼女の前に立っていた。彼は黙ってそこに入ってきたのである。

「ああ、市長様でございますか!」と彼女は叫んだ。

彼は低い声でそれに答えた。「あのかわいそうな女性はどんな具合ですか。」

「今のところはそう悪くはありません。でも私たちは大変心配いたしました。」彼女は経過を話した。ファンティーヌは前日非常に悪かったが、今では市長がモンフェルメイユに子供を引き取りに行っていると思い込んでいるため、ずっとよくなったという。彼女はあえて市長に尋ねることができなかったが、市長がそこから帰ってきていないことをその様子から察した。

「それはいい具合だ」と彼は言った。「事実を打ち明けないでおかれたのはよかった。」

「そうです。」と修道女は言った。「ですが、今あの女性があなたに会って子供を見なかったら、私たちは何と言えばいいのでしょうか。」

彼は少し考え込んだ。「神様が何とか教えて下さるでしょう。」と彼は言った。

「ですが、嘘は言えないんですもの。」と修道女は口の中でつぶやいた。

昼の光が室内に差し込み、マドレーヌ氏の顔を正面から照らしていた。修道女はふと目を上げた。「まあ、あなた!」と彼女は叫んだ。「どうなされたのでございます? あなたの髪は真っ白になっております。」

「真っ白に!」と彼は言った。

サンプリス修道女は鏡を持っていなかった。彼女はそこにある道具鞄の中を探って、小さな鏡を一つ取り出した。病人が死んで呼吸が止まったのを確かめるために、病舎の医者が使っていたものである。マドレーヌ氏はその鏡を取り、自分の髪の毛を映して眺めた。そして言った、「ほほう!」

彼はその言葉を、まるで他に心を奪われているかのように無関心な口調で言った。

修道女はそれらのことの中に何か異様なものを感じてぞっとした。

マドレーヌ氏は尋ねた。「あの女性に会ってもいいでしょうか。」

「あなたは子供を連れ戻してやるつもりではいらっしゃらないのですか?」と彼女はようやくにして一つ問いをかけた。

「もちろんそうするつもりです。ですが、少なくとも二、三日はかかるでしょう。」

「では、その時まであの女性に会わないことにしてはいかがでしょう。」と彼女はおずおず言った。「あの女性はあなたがお帰りのことを知らないでしょう。それに気長く待たせるのは容易でしょう。そして子供が来たら、自然に市長様も子供と一緒にお帰りになると思うに違いありません。そうすれば、少しも嘘を言わずに済みます。」

マドレーヌ氏はしばらく考えているようだったが、それから落ち着いた重々しい調子で言った。「いや、私はあの女性に会わなければならない。たぶん、急ぐんだから。」

修道女はその「たぶん」という語に気づいていないようだった。しかし、それは市長の言葉に曖昧な特殊な意味を与えるものだった。彼女はうやうやしく目を伏せ、声を低めて答えた。「それでは、あの女性はお休みになっていますが、お入りくださいませ。」

彼は扉の具合が悪く、その音が病人の目を覚まさせるかもしれないことに少し注意して、それからファンティーヌの室に入り、その寝台に近づいて、帷を少し開いてみた。彼女は眠っていた。胸から出る息には悲痛な音が交じっていた。その音は、その病気特有のものであり、眠りに落ちた死に瀕した子供のそばで徹夜看護する母親らの胸を痛ましめるものである。しかし、その困難な呼吸も、彼女の顔の上に広がって彼女の眠った姿を変えている一種言い難い晴朗さを、ほとんど乱してはいなかった。彼女の青ざめた色は今は白色になっていた。その頬には鮮やかな色が上っていた。

処女と青春からなお残っている彼女の唯一の美である長い金色の睫毛は、低く閉ざされていながら揺らめいていた。彼女の全身は軽く震えていた。目には見えないが、その動きは感じられる羽がまさに開いて、彼女を運び去ろうとしているかのようだった。そのような彼女の姿を見ては、ほとんど絶望の病人であるとは信じられなかったろう。彼女はまさに死のうとしているというよりも、むしろ飛び去ろうとしているかのようだった。

人の手が花を摘み取ろうとして近づくとき、その枝は震え、身を退けるとともにまた身を差し出すがごとく思われる。死の神秘なる指先がまさに魂を摘み取らんとする時、人の身体もそれに似た震えをなすものである。


マドレーヌ氏は病床のそばにしばらくじっとたたずんで、ちょうど二カ月前初めて彼女をこの避難所に見舞ってきた日のように、病人と十字架像とを交互にながめていた。彼らは二人ともそこにやはり同じ姿勢をしていた。彼女は眠り、彼は祈って。ただ二カ月が過ぎた今日、彼女の髪は灰色になり、彼の髪はまっ白になっていた。

サンプリス修道女は彼とともにはいってきていなかった。彼は寝台のそばに立ち、まるで室内に誰かがいて、その者に沈黙を命じるかのように、指を口にあてていた。

ファンティーヌは目を開いた。彼女は彼を見た。そしてほほえみながら静かに言った。「あの、コゼットはどうなっていますか?」

 

1.楽しきファンティー

ファンティーヌは驚いた様子も、喜びの様子も見せなかった。彼女は喜びそのものでした。「あの、コゼットは?」というその簡単な問いは、深い信念と確信を持って、不安も疑念もまったくなしに発せられたので、マドレーヌ氏はそれに答える言葉が見つからなかった。ファンティーヌは続けて言った。「私はあなたがここにいることを知っていました。私は眠っておりましたが、あなたを見ていました。もう長い間見ていました。夜通し私は目であなたの後を追っていました。あなたは栄光に包まれて、あなたのまわりにはあらゆる天の人たちがいました。」

彼は十字架像の方に目を上げた。「ですが、」と彼女は言った。「どこにコゼットはいるのか教えてください。私が目を覚ますときのために、なぜ私の寝床の上に連れてきて下さらなかったのでしょう。」

彼は何か機械的に答えた。しかし何と答えたのか、自分でも後でどうしても思い出せなかった。ちょうど幸運にも、医者が知らせを受けてやってきた。彼はマドレーヌ氏を助けた。「まあ、静かになさい。」と医者は言った。「子供はあちらに来ています。」

ファンティーヌの目は輝き渡り、顔一面に光を投げた。すべて祈願の含み得る最も激しいまた優しいものをこめた表情をして、彼女は両手を握り合わした。「ああ、どうか!」と彼女は叫んだ。「私のところへ抱いてきてください。」

ああ、いかに人の心を動かす母の幻想であろうか!コゼットは彼女にとっては常に、抱きかかえ得る小さな子供であった。「まだいけません。」と医者は言った。「今すぐはいけません。まだあなたには熱があります。子供を見たら興奮して身体にさわるでしょう。まずすっかり治らなければいけません。」

彼女は苛立ってその言葉をさえぎった。「私はもう良くなっていますよ!なおっていますっていうのに!この先生は何てわからずやでしょう。ああ、私は子供に会いたいのです。私は!」

「それごらんなさい。」と医者は言った。「あなたはそんなに興奮するでしょう。そんなふうでいる間は、子供に会うことに私は反対します。子供に会うだけでは何にもなりません。子供のために生きなければいけません。あなたがしっかりしてきたら、私が自分で子供を連れてきてあげます。」

あわれな母は頭を下げた。「先生、お許しください。ほんとうに許して下さいませ。昔は今のような口のきき方をしたことはありませんでしたが、あんまりいろいろな不幸が続きましたので、どうかすると自分で自分の言ってることがわからなくなるのです。私はよくわかっております。あまり心を動かすことを御心配なさっていらっしゃるんですわね。私は先生のおっしゃるまで待っていますわ。ですけれど、娘に会っても身体にさわるようなことは決してありませんわ。私は娘を見ています。昨晩から目を離していません。今娘が抱かれて私のところへ来ても、私はごく静かに口をききます。それだけのことですわ。

モンフェルメイユからわざわざ連れてきてくださった子供に会いたがるのは、当たり前のことではありませんか。私は苛立ってはいません。私はこれから幸せになるのをよく知っています。夜通し私は、何か白いものを、そして私に笑いかけている人たちを見ました。先生のおよろしい時に、私のコゼットを抱いてきてくださいませ。私はもう熱はありません。なおっているんですもの。もう何ともないような気がしますわ。けれど、病人のようなふうをして、ここの御婦人方の気に入るように動かないでおりましょう。私が静かにしているのを御覧になったら、子供に会わせてくださるとおっしゃってくださいますでしょう。」


マドレーヌ氏は寝台のそばにある椅子に座っていた。ファンティーヌは彼の方に顔を向けた。彼女はまるで子供のように衰弱し、自分でも言った通り、静かに「おとなしく」しているのを見せようと明らかに努力していた。そして、自分が穏やかにしているのを見たら誰もコゼットを連れて来るのに反対しないだろうと思っているらしかった。けれども、自らそう抑えながらも、彼女はマドレーヌ氏にいろいろなことを尋ねてやまなかった。

「市長様、旅はおもしろかったですか。本当に、私のために子供を引き取りに行ってくださって、何という親切でしょう。ただちょっと子供の様子を聞かせてくださいませ。旅にも弱りませんでしたでしょうか。ああ、娘は私を覚えていないでしょう!あの時から私をもう忘れているでしょう、かわいそうに!子供には記憶というものがないのですもの。小鳥のようなものですわ。今日はこれを見ているかと思うと、明日はあれを見ています。そして、もう何も思い出しません。娘は白いシャツを着ていましたでしょうか。テナルディエの人たちは娘をきれいにしてくれていましたでしょうか。どんなものを食べていたのでしょうか。本当に、私は困っていた頃、そんなことを考えてはどんなに苦しい思いをしたことでしょう。でも今ではみんな済んでしまいました。私は本当にうれしいのです。

ああ、私はどれほど娘に会いたいことでしょう!市長様、娘はかわいらしかったでしょうか。娘はきれいでございましょうね。あなたは駅馬車の中でお寒くていらっしゃいましたでしょうね。ほんのちょっとの間でも娘を連れてきていただけませんでしょうか。一目見たらまたすぐ向こうに連れて行かれてもよろしいんですが。ねえ、あなたは御主人ですから、あなたさえお許しになりますれば!」

彼は彼女の手を取った。「コゼットはきれいです。」と彼は言った。「コゼットは丈夫です。じきに会えます。が、まあ落ち着かなくてはいけません。あなたはあまりひどく口をきくし、それに寝床から腕を出しています。それで咳が出るんです。」

実際、激しい咳が彼女の言葉をほとんど一語一語妨げていた。

ファンティーヌはもう不平を言わなかった。あまり激しく訴えすぎて、皆に安心させようとしていたのが無駄になりはしないかと恐れた。そして関係のない他のことを言い出した。「モンフェルメイユは相当よい所ではありませんか。夏になるとよく人が遊びに行きます。テナルディエの家は繁盛しておりますか。あの辺は旅の客が多くありません。で、あの宿屋もまあ料理屋見たいなものですわね。」

マドレーヌ氏はやはり彼女の手を取ったままで、心配して彼女の顔を見ていた。明らかに彼女に何事かを言うために来たのであったが、今や彼の頭はそれに躊躇していた。医者は診察を済ませて出て行った。ただサンプリス修道女だけが彼らの傍に残った。

そのうち、その沈黙の最中に、ファンティーヌは叫んだ。「娘の声がする。あ、娘の声が聞こえる!」

彼女は周囲の人たちに黙っているように腕を伸ばし、息を凝らして、喜ばしげに耳を澄まし始めた。

ちょうど中庭に一人の子供が遊んでいた。門番の女の子か、または誰か女工の子であろう。それこそ実に、痛ましい出来事の神秘な舞台面の一部をなす、あのよくある偶然の一つである。それは一人の小さな女の子で、寒さをしのぐために行き来しながら、高い声で笑い歌っていた。ああ、子供の戯れがすべてに交じり合うものだ!ファンティーヌが聞いたのはその小さな娘の歌う声であった。

「おお!」とファンティーヌは言った。「あれは私のコゼットだわ!私はあの声を覚えている。」


子供は来た時のようにまたふいに去って行った。声は聞こえなくなった。ファンティーヌはなおしばらく耳を傾けていたが、次にその顔は暗くなった。そしてマドレーヌ氏は、彼女が低い声で言うのを聞いた。「私を娘に会わせてくれないとは、あのお医者は何という意地悪だろう!本当にいやな顔をしているわ、あの人は。」

しかし彼女の頭の底の楽しい考えはまた浮き出してきた。彼女は頭を枕につけ、自分自身に語り続けた。「私たちはどれほど幸せになることでしょう!まず一番に小さな庭が持てる。マドレーヌ様がそうおっしゃっていらした。娘はその庭で遊ぶだろう。それにもう字も覚えなければならない。綴り方を教えてやろう。草の中に蝶々を追いかけることだろう。私はその姿を見てやるわ。それからまた、初めての聖体拝受(コンミュニオン)もさしてやろう。ああ、いつそれをするようになるのかしら?」

彼女は指を折って数え始めた。「……一ひい、二ふう、三みい、四よう、もう七歳になる。もう五年したら。白いヴェールを被せ、透き編みの靴下をはかせよう。一人前の娘さんのようになるだろう。ああ、童貞さん、本当に私はばかですね、娘の最初の聖体拝受(コンミュニオン)なんて考えたりして。」そして彼女は笑い出した。

マドレーヌ氏はファンティーヌの手を離していた。彼は下に目を伏せ、底知れぬ思索に沈み込んで、あたかも風の吹く音を聞くかのようにそれらの言葉に耳を傾けていた。すると突然、彼女は口をつぐんだ。彼はそれで機械的に頭を上げた。ファンティーヌは恐ろしい様子になっていた。

彼女はもう口をきこうとしなかった。息さえも潜めていた。彼女はそこに半ば身を起こし、やせた肩がシャツから現れ、一瞬前まで輝いていた顔は真っ青になり、そして、自分の前にある室の向こうの端に、何か恐ろしいものを見つめているようだった。

「おう!」と彼は叫んだ。「どうした?ファンティーヌ。」

彼女は答えなかった。その見つめたある物から目を離さなかった。彼女は片手で彼の腕をとらえ、片手で後ろを見るように合い図をした。

彼は振り返って見た。そこにはジャヴェルが立っていた。

 

3.満足なるジャヴェル

事実の経過はこうである。

マドレーヌ氏がアラスの重罪裁判所を去ったのは、夜の十二時半の時だった。彼は宿屋に帰り、読者が知る通り、席を約束しておいた郵便馬車で出発するのに、ちょうど間に合った。朝の六時少し前にモントルイュ・スュール・メールに到着した。そして第一の仕事は、ラフィット氏への手紙を郵便局に投げ込み、次に病舎へ行ってファンティーヌを見舞うことだった。

しかるに一方では、彼が重罪裁判の法廷を去るや、検事は初めの驚きから我に返って、モントルイュ・スュール・メールの名誉ある市長の常規を逸した行動をあわれむ由を述べ、後にわかるべきその奇怪なできごとによっても自分の確信は少しも変わらないことを表明し、真のジャン・ヴァルジャンなることが明白であるそのシャンマティユーの処刑をさしあたり要求する旨を論じた。その検事の固執は、公衆や法官、陪審員などすべての人々の感情と明らかに衝突した。弁護士は容易に検事の論旨を弁駁することができ、マドレーヌ氏、すなわち真のジャン・ヴァルジャンの告白によって事件の局面は根本からくつがえされ、陪審の人々はもはや眼前に無罪の男を見るのみであることを、容易に立論することができた。彼はまたそれに乗じて、裁判上の錯誤やその他種々のことについて、惜しいかな、さして新しくもない感慨的な結論を述べた。裁判長は結局弁護士に同意した。そして陪審員らは数分の後、シャンマティユーを免訴した。

しかし検事には一人のジャン・ヴァルジャンが必要であった。そして既にシャンマティユーを逸したので、マドレーヌの方をとらえた。シャンマティユーの放免後直ちに、検事は裁判長とともに一室に閉じこもった。彼らは「モントルイュ・スュール・メールの市長その人の逮捕の必要のこと」を商議した。このような言葉の多い文句は検事のもので、検事長への報告の原稿にすべて彼の手によって書かれたものである。初めの感動はもう通り過ぎていたので、裁判長もあまり異議を立てなかった。正義の行進をささえ止めるわけにはいかなかった。なおついでに言ってしまえば、裁判長は善良なかなり頭のいい男ではあったが、同時に非常なほとんど激烈な王党であって、モントルイュ・スュール・メールの市長がカーヌ上陸のことを言うおり、ブオナパルトと言わないで皇帝と言ったことに気を悪くしていたのである。

そこで逮捕の令状は発送せられた。検事は特使に馬を駆らしてモントルイュ・スュール・メールに使わし、警視ジャヴェルにそのことを一任した。ジャヴェルは供述を終えた後、直ちにモントルイュ・スュール・メールに帰っていたことは、読者が既に知っている通りである。

特使が逮捕令状と拘引状とをもたらした時には、ジャヴェルはもう起き上がっていた。特使の男もものなれた一警官であって、わずか数語でアラスに起こった事をジャヴェルに伝えた。検事の署名のある逮捕令状は次のようだった。「警視ジャヴェルは本日の法廷において放免囚徒ジャン・ヴァルジャンなりと認定せられたるモントルイュ・スュール・メール市長マドレーヌ氏を逮捕せらるべし。」

ジャヴェルを知らずに、たまたま彼が病舎の控え室に入ってきたところを見た人がいたとしたら、その人はおそらく何が起こったのか察することはできなかっただろう、そして彼の中に何ら異常な様子も見いださなかっただろう。彼は冷ややかで落ち着いて重々しく、半白の髪をすっかりこめかみの上になでつけ、いつものようにゆっくり階段を上がってきたのだった。しかし彼をよく知っていて今その様子を注意して見た人があったら、その人は戦慄を覚えたであろう。その鞣革なめしがわのカラーの留め金は、首の後ろになくて、左の耳の所にきていた。それは非常な動乱を示すものであった。


ジャヴェルは一徹な男であって、その義務にも服装にも一つのしわさえ許さなかった。悪人に対して規律正しく、服のボタンについても厳格であった。

カラーの留め金を乱している所を見ると、内心の地震とも称し得べき感情の一つが、彼のうちにあったに違いなかった。彼は近くの屯所から一人の伍長と四人の兵士を呼び寄せ、それを中庭に残しておき、ただ簡単にやってきたのだった。彼は門番の女からファンティーヌの室を聞いた。門番の女は兵士らが市長を尋ねてくるのは見なれていたので、別に怪しみもしなかったのである。

ファンティーヌの室に来ると、ジャヴェルは取っ手を回し、看護婦かあるいは探偵のようにそっと扉を押し開き、そして入ってきた。厳密に言えば彼は中には入っていなかった。帽子をかぶったまま、あごまでボタンをかけたフロックに左手をつき込み、半ば開いた扉の間に立っていたのである。曲げた腕の中には、後ろに隠し持った太い杖の鉛の頭が見えていた。

彼はだれにも気づかれずに一分間ばかりそうしていた。すると突然ファンティーヌが目をあげて、彼を見、マドレーヌ氏をふり向かせたのだった。マドレーヌの視線とジャヴェルの視線とが合った時、ジャヴェルは身を動かさず、位置を変えず、近づきもしないで、ただ恐るべき姿になった。およそ人間の感情のうちで、かかる喜びほど恐るべき姿になり得るものはない。それは実に、地獄に堕ちた者を見いだした悪魔の顔であった。

ついにジャン・ヴァルジャンを捕え得たという確信は、魂の中にあるすべてをその顔の上に現わさしたのである。かき回された水底のものが水面に浮かび上がってきたのである。少し手掛かりを失って一時シャンマティユーを誤認したという屈辱の感は、最初いかにもよく察知して長い間正当な本能を持ち続けていたという高慢の念に消されてしまった。ジャヴェルの満足はその昂然たる態度のうちに現われた。醜い勝利の感はその狭い額の上に輝いた。それは満足した顔つきが与え得る限りの恐怖の発現であった。

ジャヴェルは、その瞬間、まるで天にいるかのようだった。自らはっきり自覚してはいなかったが、しかし自己の有用と成功に対するおぼろな直覚をもって彼ジャヴェルは、悪をくじく聖なる役目における正義光明真理の権化であった。彼はその背後と周囲に、無限の深さで、権威、正義、判決されたもの、合法的良心、重罪公訴など、あらゆる星を持っていた。彼は秩序を擁護し、法律からその雷電を発せしめ、社会のために復讐し、絶対なるものに協力し、自ら光栄のうちに突っ立っていた。彼の勝利の中には、なお挑戦と戦闘の名残があった。光彩を放ちながら傲然と突っ立って彼は、獰猛なる天使の長の超人間的な獣性を青空の真ん中に広げていた。彼が遂げつつある行為の恐るべき影は、社会の剣の漠然たる光をその握りしめた拳に浮き出させていた。満足しかつ憤然として彼は、罪悪、不徳、反逆、永罰、地獄を、その足下に踏み押さえていた。彼は光り輝き、悪を撃滅し、微笑んでいた。そしてその恐るべき聖ミカエルのうちには争うべからざる壮大さがあった。

ジャヴェルはかく恐ろしくはあったが、何ら賤いやしいところはなかった。清廉、真摯、誠実、確信、義務感などは、悪用される時には嫌悪すべきものとなるが、しかしなおそれでも壮大さを失わない。人間の良心に固有なるそれらのものの威厳は、人をおびえさせる時にもなお残存する。それらのものは、錯誤という一つの欠点をのみ有する徳である。凶猛に満ちた狂信者の正直な無慈悲な喜悦のうちには、痛ましくも尊むべき光がある。ジャヴェルは自ら知らずして、あらゆる無知なる勝利者と同じく、その恐るべき幸福の中にあって哀れむべき者であった。善の害悪とも称し得べきものの現われているその顔ほど、痛切かつ恐るべきものはなかった。

 

4.官憲再び権力を振るう

ファンティーヌは、市長が彼女を助けてくれたあの日以来、ジャヴェルを見ていなかった。彼女の病める頭には何事もよくわからなかったが、ただ彼が再び自分を捕えにきたのだということを信じた。彼女はその恐ろしい顔を見るに耐えなかった。息が詰まりそうな気がした。彼女は顔を両手のうちに隠して苦しげに叫んだ。

「マドレーヌ様、助けて下さいませ!」

ジャン・ヴァルジャン――われわれはこれからはもうこの名前で彼を呼ぶことにしよう――は立ち上がっていた。彼は最も優しい落ち着いた声でファンティーヌに言った。

「安心なさい。あの人が来たのはあなたのためではありません。」

それから彼はジャヴェルへ向かって言った。

「君の用事はわかっている。」

ジャヴェルは答えた。

「さあ、早く!」

その二語の音調には、荒々しい狂気じみたものがあった。ジャヴェルは「さあ、早く!」というよりもむしろ、「さあやく!」と言ったようだった。いかなる綴りをもってしても、それが発せられた調子を写すことはできないほどだった。それはもはや人間の言葉ではなく、一種の咆哮だった。

彼は慣例どおりのやり方をしなかった。一言の説明も与えず、拘引状をも示さなかった。彼の目にはジャン・ヴァルジャンは一種不思議なとらえ難い勇士であって、五年間手をつけながらくつがえすことのできなかった暗黒な闘士であるように見えた。その逮捕は事の初めではなく終局であった。彼はただ「さあ、早く!」とだけ言った。

そう言いながらも彼は一歩も進まなかった。彼はいつも悪党らを自分の方へ手荒く引きつけるあの目つきを、鉤索のようにジャン・ヴァルジャンの上に投げつけた。二カ月以前、ファンティーヌが骨の髄まで貫かれたように感じたあの目つきが、やはりそれであった。

ジャヴェルの叫ぶ声に、ファンティーヌは目を開いた。しかしそこには市長がいる。何を恐れることがあろう?

ジャヴェルは室のまんなかまで進んだ、そして叫んだ。

「さあ、貴様、こないか。」

あわれな彼女は周囲を見回し、恐怖に震えた。そこには修道女と市長とのほか、だれもいなかった。その『貴様』というひどい言葉は、いったい誰に向けられたのであろうか。自分よりほかにない。彼女は震え上がった。

その時、彼女は異常な光景を目にした。それほどのことは、熱に浮かされた最も暗黒な昏迷のうちにさえ見たことがなかった。彼女は探偵ジャヴェルが市長の首筋をつかんだのを見た。市長が頭をたれたのを見た。彼女には世界が消え失せるような気がした。

ジャヴェルは、実際にジャン・ヴァルジャンの首筋をつかんでいた。

「市長様!」とファンティーヌは叫んだ。

ジャヴェルは吹き出した。歯をむき出しにした恐ろしい笑いだった。

「もう市長などという者はここにいないんだぞ!」

ジャン・ヴァルジャンはフロックの襟をつかまれた手を離そうとはしなかった。彼は言った。

「ジャヴェル君……。」


ジャヴェルはそれを遮った。

「警視殿と言え。」

「あなたに、」とジャン・ヴァルジャンは言った、「内々で一言言いたいことがあります。」

「大声で、大声で言え!」とジャヴェルは答えた。「だれでも俺には大声で言うのだ。」

ジャン・ヴァルジャンはやはり声を低めて言った。

「あなたに是非一つのお願いがあるのですが……。」

「大声で言えというに。」

「しかしあなただけに聞いてもらいたいのですから……。」

「俺に何だって言うのだ。俺は聞かん!」

ジャン・ヴァルジャンは彼の方へ向き、早口にごく低く言った。

「三日の猶予を与えて下さい! このあわれな女の子供を連れに行く三日です。必要な費用は支払います。いっしょに来て下すってもよろしいです。」

「笑わせやがる!」とジャヴェルは叫んだ。「なあんだ、俺は貴様をそんなばかだとは思わなかった。逃げるために三日の猶予をくれと言うのだろう。そしてそいつの子供を連れて来るためだと言ってやがる。あはは、けっこうなことだ。なるほど、うまい考えだ!」

ファンティーヌは驚き、ぎくりとした。

「私の子供!」と彼女は叫んだ。「私の子供を連れに行く! では子供はここにいないのかしら! 童貞さん、言って下さい、コゼットはどこにいるんです? 私は子供がほしい。マドレーヌ様、市長様!」

ジャヴェルは足をふみ鳴らした。

「またそこに一人いるのか! 静かにしろ、醜業婦! 徒刑囚が役人になったり、淫売婦が貴族の取り扱いを受けたり、何という所だ! だがこれからはそうはいかないぞ。もう時がきたんだ。」

彼はファンティーヌをにらみつけ、ジャン・ヴァルジャンのえり飾りとシャツと首筋とをつかみながらつけ加えた。

「もうマドレーヌさんも市長さんもないんだぞ。泥坊がいるだけだ、悪党が、ジャン・ヴァルジャンという懲役人が。そいつを今俺が捕えたんだ。それだけのことだ。」

ファンティーヌは、硬くこわばった腕と両手を使って、その場に飛び起きた。

ジャン・ヴァルジャンを見、ジャヴェルを見、修道女を見、何か言いたそうに口を開いた。

ごろごろいう音が喉の奥から出、歯ががたがた震えた。そして彼女は苦悶のうちに両腕を差し伸べ、痙攣的に両手を開き、おぼれる者のようにあたりをかき回し、それからにわかに枕の上に倒れた。

その頭は枕木にぶつかって、胸の上にがっくりたれた。

口はぽかんと開いて、目は開いたまま光が消えていた。

彼女は、ついに息を引き取った。

ジャン・ヴァルジャンは自分をつかんでいるジャヴェルの手の上に自分の手を置き、赤児の手を開くようにそれを開き、そしてジャヴェルに言った。

「あなたはこの女を殺した。」

「早く片づけてしまおう!」とジャヴェルは憤激して叫んだ。「俺は理屈を聞きにここに来たんじゃない。そんなことははぶいたがいい。護衛の者は下にいる。すぐに行くか、もしくは手錠かだぞ!」

室の片すみに古い鉄の寝台があった。かなりひどくなっていたが、修道女たちが病人を看護しながら寝る時に使われていた。

ジャン・ヴァルジャンはその寝台の所へ歩み寄り、いたんでいるその枕木をまたたくまにはずした。それくらいのことは彼のような腕力にはいとたやすいことだった。

彼はその枕木の太い鉄棒をしっかりつかんで、ジャヴェルを見つめた。

ジャヴェルは扉の方へ退いた。

鉄棒を手にしたジャン・ヴァルジャンは、おもむろにファンティーヌの寝台の方へ歩いて行った。

そこまで行くと彼は振り返り、ようやく聞き取れるくらいの声でジャヴェルに言った。

「今しばらく私の邪魔をしてもらいますまい。」

確かなことには、ジャヴェルは震えていた。

彼は護衛の者を呼びに行こうと思ったが、その間にジャン・ヴァルジャンが逃げるかもしれないと考えた。それで彼はそのままそこに残って、その杖の一端を握りしめ、ジャン・ヴァルジャンから目を離さずに扉の框を背にして立っていた。

ジャン・ヴァルジャンは寝台の枕木の頭に肘をつき、額を掌に当て、そこに横たわって動かないファンティーヌを見つめはじめた。

彼はそのまま気を取られて無言でいた。明らかにこの世のことは何にも思っていなかったのであろう。

彼の顔にも態度にも、もはや言い知れぬ憐憫の情しか見えなかった。そしてその瞑想をしばらく続けた後、彼はファンティーヌの方に身をかがめて、低い声で何かささやいた。


彼は彼女に何と言ったのであろうか?

この世から見捨てられたその男は、死んだその女に何を言えたのだろうか。

その言葉は、一体何だったのだろうか。

地上の何人にも、それは聞こえなかった。

死んだ彼女には、それが聞こえたであろうか。

おそらく、崇高な現実となる痛切な幻影が、この世には存在する。

少しの疑いも挟む余地がない。その光景の唯一の目撃者であるサンプリス修道女が、しばしば語ったところによれば、

ジャン・ヴァルジャンがファンティーヌの耳に何かささやいた時、墳墓の驚きに満ちたその青ざめた唇の上と茫然たる瞳のうちとに、

言葉に尽くし難い微笑が浮かんできたのを、彼女ははっきり見たのであった。

ジャン・ヴァルジャンはその両手にファンティーヌの頭を取り、母親が自分の子供にするようにそれを枕の上にのせ、それからシャツのひもを結んでやり、帽子の下に髪の毛をなでつけてやった。それがすんで、彼はその目を閉ざしてやった。

ファンティーヌの顔は、その時、異様に明るくなったように見えた。

死、それは大きな光耀への入り口である。

ファンティーヌの手は、寝台の外に垂れ下がっていた。

ジャン・ヴァルジャンはその手の前にひざまずいて、それを静かに持ち上げ、それに唇をつけた。

それから彼は立ち上がり、ジャヴェルの方へ向いた。

「さあ、これから、」と彼は言った、「どうにでもしてもらいましょう。」

 

5.ふさわしき墳墓

ジャヴェルはジャン・ヴァルジャンを市の監獄に投げ込んだ。

マドレーヌ氏の逮捕は、モントルイユ・スール・メールに、一つの感動、あるいはむしろ非常な動揺を引き起こした。

まことに悲しむべきことではあるが、あの男は徒刑囚であったというそれだけの言葉で、ほとんどすべての人は彼を捨てて顧みなかったことを、われわれは隠すわけにはいかない。

わずか二時間足らずのうちに、彼がなしたすべての善行は忘れ去られてしまった。そして彼はもはや「一人の徒刑囚」に過ぎなくなった。

ただし、アラスのできごとの詳細はまだ知られていなかったことを言っておかなければならない。

終日町の方々で次のような会話がかわされた。

「君は知らないのか、あれは放免囚だったとさ。――だれが?――市長だ。――なにマドレーヌ氏が?――そうだ。――本当か。――彼はマドレーヌというのではなくて、何でもベジャンとかボジャンとかブージャンとかいう恐ろしい名前だそうだ。――へーえ!――彼は捕まったのだ。――捕った!――護送されるまで市の監獄に入れられているんだ。――護送するって! これから護送するって! どこへ連れて行くんだろう。――昔大道で強盗をやったとかで重罪裁判に回されるそうだ。――なるほど、僕もそんな奴だろうと思っていた。あまり親切で、あまり申し分がなく、あまり物がわかりすぎた。勲章は断わるし、餓鬼どもに会えばだれにでも金をやっていた。それには何かきっと悪いことでもしてきた奴だろうと、僕はいつも思っていた。」

「客間」では特にその種の話が盛り上がっていた。

ドラポー・ブラン紙の読者である一人の老婦人は、ほとんど測り得られないほど深い意味のこもった次のような考えを述べた。

「私は別にお気の毒だとは思いませんよ。ブオナパルト派の人たちには良い見せしめでしょう。」

かくのごとくして、マドレーヌ氏と呼ばれていた幻はモントルイユ・スール・メールから消え失せてしまった。ただ全市中で、三、四人の人々がその記憶を忠実に保っていた。

彼に仕えていた門番の婆さんもそのうちの一人だった。

その日の晩、その忠実な婆さんは、不安を抱えつつ、悲しげに思い沈んで、門番部屋の中に座っていた。

工場は終日閉ざされ、正門は閂がさされ、街路には人通りもなかった。

家の中には、ファンティーヌの死体のそばで通夜をしているペルペチューとサンプリスとの二人の修道女がいるばかりだった。

マドレーヌ氏がいつも帰って来る頃の時間になると、善良な門番の婆さんは機械的に立ち上がり、引き出しからマドレーヌ氏の室の鍵を取り出し、毎晩マドレーヌ氏が自分の室に上がってゆく時に使っていた手燭を取り上げて、それから、マドレーヌ氏がいつも取ってゆく釘に鍵をかけ、そのそばに手燭を置き、あたかも彼を待っているかのようだった。それからまた彼女は椅子に腰をおろして考え始めた。その正直なあわれな婆さんは、自分でも知らずにそれらのことをしたのだった。

それからおよそ二時間あまりも過ぎてからだったが、彼女は夢の中から醒めて、叫んだ。「まあ、どうしたというんだろう、私はあの方の鍵を釘にかけたりなんかして!」

その時、部屋のガラス窓が開き、そこから一つの手が出てきて、鍵と手燭とを取り、火のついた別の蝋燭から手燭の小蝋燭に火をつけた。

門番の婆さんは目をあげてあっと口を開いた。喉元まで叫び声が出たが、彼女はそれを押さえつけた。

彼女は、その手、その腕、そのフロックの袖を覚えていた。

それはマドレーヌ氏であった。

彼女は数秒間口がきけなかった。彼女自ら後になってそのできごとを人に話す時、いつも言ったように、まったくたまげてしまったのである。

「まあ、市長様、」と彼女はついに叫んだ、「私はあなたのいらっしゃる所は……。」

彼女は言い淀んだ。その言葉の終わりは初めの言い方に対して敬意を欠くことになるのだった。ジャン・ヴァルジャンは彼女にとってはやはり市長様であった。

彼は彼女の思っているところを言ってやった。

「牢屋だと思ってたというんだろう。」と彼は言った。

「私はなるほど牢屋にいた。だが私は窓の格子を壊し、屋根の上から飛びおり、そしてここにきたのだ。私は自分の室に上がってゆくから、サンプリス修道女を呼びに行ってくれ。きっとあのあわれな女のそばにいるだろうから。」


婆さんは急いでその言葉に従った。

彼は彼女に何らの注意も与えなかった。自分で用心するよりも、彼女が自分を守ってくれることを、彼は信じていた。

どうして彼が正門を開けさせずに中庭に入って来ることができたのかは、誰にもわからなかった。

彼は小さな潜り戸を開ける合い鍵を持っていて、それを常に身につけていた。しかし身体を調べられてその合い鍵も取り上げられたはずであった。この点は不明のままに終わった。

彼は自分の部屋に通じる階段を上がっていった。その上まで行くと、手燭を階段の一番上の段に置き、音を立てないように扉を開き、手探りで進んで窓と雨戸を閉ざし、それから手燭を取りに戻ってきて、部屋の中に再び入った。

それは有用な注意であった。彼の窓が街路から見えることは読者の思い起こすところであろう。

彼はあたりをじろりと見回した。テーブルや椅子や、三日前から手もつけられていない寝台などを。一昨夜の取り乱した跡は少しも残っていなかった。

門番の婆さんが「部屋をこしらえた」のであった。ただ彼女は、鉄のはまった杖の両端と火に黒くなった四十スー銀貨を、灰の中から拾い上げて丁寧にテーブルの上に置いていた。

彼は一枚の紙を取って、その上にしたためた。「これは我が鉄を着せし杖の両端および重罪法廷にて語りたるプティー・ジェルヴェーより奪いし四十スー貨幣なり。」

そして彼は、その紙の上に銀貨と二つの鉄片とを置き、部屋に入れば一番に目につくようにしておいた。

彼は戸棚から自分の古いシャツを引き出し、それを引き裂いた。そして幾つかの布片を作って、その中に二つの銀の燭台を包み込んだ。

彼は別に急いでもそわそわしてもいなかった。司教の燭台を包みながら、黒パンの一片をかじった。

たぶんそれは、脱走しながら携えてきた監獄のパンであったろう。そのことは、警察から後で捜索に来た時、部屋の床の上に見いだされたパンのくずによって確かめられた。

だれかが扉を低く二つたたいた。

「おはいりなさい。」と彼は言った。

サンプリス修道女であった。

彼女は青ざめ、両眼は赤くなり、持っていた蝋燭は手のうちに揺らめいていた。

運命の暴力は、いかに私たちが完成していたり、冷静であったりしても、私たちの心の奥底から人間性を引き出し、それを外に現す特性を持っている。

その一日の感動の中で、その修道女も再び一人の女性に戻っていた。彼女は泣いていた、そして今、震えていた。

ジャン・ヴァルジャンは一枚の紙に数行したため終わって、それを修道女に差し出して言った。

「どうかこれを司祭さんに渡して下さい。」

その紙は折り畳んであった。彼女はその上に目を落とした。

「読んでもよろしいです。」と彼は言った。

彼女はその内容を読み上げた。「ここに残してゆくいっさいのものを御監理下さるよう司祭殿に御願い申し候。そのうちより、訴訟費用および今日死去せる婦人の埋葬費御支払い下さるべく候。残余のものは貧しき人々へ御施し下されたく候。」

修道女は何か言おうとした。しかしかろうじて不明な音を少しつぶやき得たばかりだった。それでもついに彼女はこれだけ言うことができた。

「市長様は、最後にも一度あのかわいそうな女を見ておやりになりたくはございませんか。」

「いや、」と彼は言った、「私は追跡されています。その部屋で捕まるばかりです。そうなるとかえってあの女の霊を乱すでしょう。」

彼がそう言い終わるか終わらぬうちに、大きな物音が階段にした。

二人は階段を上がって来る騒々しい足音を聞いた。そしてまた、できるだけ高い鋭い声で門番の婆さんの言うのが聞こえた。

「あなた、私は誓って申します、昼間も晩もだれ一人ここへは入って来ませんでした、それに私は一度も門から離れたこともなかったのです。」

一人の男が答えた。


「それでもその部屋に灯りが見える。」

二人にはジャヴェルの声だとわかった。

その部屋は、扉を開くと右手の壁の隅が隠れるようになっていた。ジャン・ヴァルジャンは手燭の火を吹き消し、その隅に入った。

サンプリス修道女はテーブルのそばにひざまずいた。

扉が開かれた。

ジャヴェルが入ってきた。

数人の者のささやく声と、門番の婆さんの言い張る声が廊下に聞こえていた。

修道女は目を上げなかった。彼女は祈っていた。

蝋燭は暖炉の上にあって、ごく淡い光を投げていた。

ジャヴェルは修道女を見て、茫然と立ち止まった。

ジャヴェルの根本、彼の本質、彼の呼吸の中心は、あらゆる権威に対する尊敬であったことは、読者が思い起こせることであろう。

彼はまったく単純で、何らの異論も制限も許さなかった。もとより彼にとっては、宗教上の権威はすべての権威の第一なるものであった。

彼はこの点についても、他のあらゆることと同様に、厳格で表面的で正確だった。彼の目には、牧師は誤りを犯さない者であり、修道女は罪を犯さない者であった。それはいずれも、真実を通す時のほかは決して開かぬただ一つの扉でこの世と通じている魂であった。

修道女を認めて、彼の第一の動作は引き退こうとすることだった。

けれどもまた、彼を捕まえて反対の方向に厳しく押し進めることも一つの義務があった。そして彼の第二の動作は、そこに立ち止まり、少なくとも一つの問いをかけてみることだった。

しかもそれは生涯に一度も嘘を言ったことのないサンプリス修道女だった。ジャヴェルはそれを知っていて、特にそのために彼女を尊敬していた。

「童貞さん、」と彼は言った、「この部屋にはあなた一人ですか。」

恐ろしい一瞬が訪れた。あわれな門番の婆さんは、気が遠くなるような感覚に襲われた。

修道女は目を上げて、そして答えた。

「はい。」

「だが、」とジャヴェルは言った、「しつこく言うのをお許しください、私の義務ですから。あなたは今晩、だれか、一人の男を見かけませんでしたか。その男が逃走したので探しているところです。あのジャン・ヴァルジャンという男です。あなたはその男を見かけませんでしたか。」

修道女は答えた。「いいえ。」

修道女は嘘を言った。相次いで、躊躇することなく、即座に、献身的に、続けて二度嘘を言った。

「失礼しました。」とジャヴェルは言った。そして彼は深くおじぎをして退いて行った。

ああ、聖なる貞女よ!汝は既に久しき以前よりこの世の者ではなかった。汝は光明のうちに汝の姉妹の童貞たちや汝の兄弟の天使たちと伍していたのである。その虚言も汝のために天国において数えられんことを!

サンプリス修道女の確答は、ジャヴェルにとってはある決定的なものであって、吹き消されたばかりでテーブルの上にまだ煙っている手燭の訝しさにも気を留めなかったのである。

一時間ほど過ぎて、一人の男が、木立と靄の間を、パリの方へ向かってモントルイユ・スール・メールから急いで遠ざかって行った。それはジャン・ヴァルジャンだった。

彼に出会った二、三の荷車屋の証言によって、彼は一つの包みを持ち、身には作業用の上衣をまとっていたことが立証された。どこで彼はその上衣を手に入れたのか?誰にも知られなかった。

ところで、数日前に工場の病舎で一人の老職工が死んだが、残っているものとてはその作業服だけだった。彼が着ていたのはたぶんそれであったろう。

最後にファンティーヌについて一言する。

私たちは皆一人の母親を持っている、大地を。人々はファンティーヌをその母に返した。

司祭はジャン・ヴァルジャンが残していったもののうちからできるだけ多くの金を貧しい人々のために取って置いた。彼はそうするのがいいと信じた、そしてまたおそらくそれは至当であったろう。結局、誰に関係したことであったか、一人の徒刑囚と一人の醜業婦とに関することではなかったか。それゆえに彼は、ファンティーヌの埋葬を簡単にし、共同墓地と言われるただ形だけの所に彼女を葬った。

ファンティーヌはかくて、すべての人のものでありかつ何人にも属さない墓地、貧しい人々の消え失せゆく無料の墓地の一隅に埋められた。ただ幸いにも神はその魂のいずこにあるかを知りたもう。人々は何人たるを問わない無名の死骨の間に暗やみのうちにファンティーヌを横たえた。彼女は塵にまみれてしまった。彼女は共同墓地に投げ込まれた。彼女の墓地はその寝所に似寄っていた。


第一部 ファンティー

 

【夜の短編小説:山月記・中島敦】中島敦の短編小説『山月記』は、1942年に発表された作品で、唐代の詩人李徴が虎に変身するという物語です。

山月記中島敦
現代語訳:Relax Stories TV

はじめに
中島敦の短編小説『山月記』は、1942年に発表された作品で、唐代の詩人李徴が虎に変身するという物語です。李徴は若くして科挙に合格する秀才でしたが、非常な自信家であり、詩人として名声を得ようとするも失敗し、最終的には虎に変わってしまいます。彼の数奇な運命を友人の袁傪に語ることで、自己の内面と向き合い、自己中心的な性格を反省する姿が描かれています。この作品は、人間の本質や生きる意味について深く考えさせられるものです。

人生の教訓

臆病な自尊心と尊大な羞恥心
李徴は自分の才能に自信を持ちながらも、他人と切磋琢磨することを避け、結果的に孤立してしまいます。これは、臆病な自尊心と尊大な羞恥心が人間関係を阻害することを教えてくれます。

自己中心的な考え方の危険性
李徴は詩業を第一に考え、妻子のことを後回しにしてしまいます。これは、自己中心的な考え方が最終的には自分を破滅に導くことを示しています。

現実を受け入れることの重要性
李徴は虎になった理由を理解し、受け入れることで自己を見つめ直します。これは、現実を受け入れることが自己成長に繋がることを教えてくれます。

友人の存在の大切さ
袁傪との再会を通じて、李徴は自分の過ちを認識し、反省することができます。これは、友人の存在が自己理解と成長にとって重要であることを示しています

 

隴西の李徴は博学才穎で、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられた。しかし、性格は狷介で、自らを頼むところが非常に厚かったため、賤吏に甘んずることを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後、故山に帰臥し、人との交わりを絶って、ひたすら詩作に耽った。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。しかし、文名は容易に揚がらず、生活は日を追うごとに苦しくなっていった。李徴は徐々に焦躁に駆られていった。この頃からその容貌も峭刻となり、肉は落ち骨は秀で、眼光は徒に炯々として、かつて進士に登第した頃の豊頬の美少年の面影は、どこに求めようもなくなっていた。数年後、貧窮に堪えかね、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。それは、己の詩業に半ば絶望したためでもあった。かつての同輩は既に遥か高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才の李徴の自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。彼は怏怏として楽しまず、狂悖の性はますます抑えがたくなった。一年後、公用で旅に出た際、汝水のほとりに宿った時、遂に発狂した。ある夜半、急に顔色を変えて寝床から起き上がると、何か訳の分からぬことを叫びつつ、そのまま下に飛び下りて、闇の中へ駈け出した。彼は二度と戻って来なかった。附近の山野を捜索しても、何の手掛かりもなかった。その後、李徴がどうなったかを知る者は誰もいなかった。

翌年、監察御史の陳郡の袁という者は、勅命を奉じて嶺南に使いし、途中の商於の地に宿った。次の朝、まだ暗い中、出発しようとしたところ、駅吏が言うには、これから先の道に人喰い虎が出るため、旅人は白昼でなければ通れない。今はまだ朝が早いから、もう少し待たれるのが宜しいでしょうとのことだった。袁は、しかし、周りの多勢を頼みにして駅吏の言葉を斥け、出発した。残月の光を頼りに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。虎は、あわや袁に躍りかかるかと思われたが、忽ち身を翻して元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰り返し呟くのが聞こえた。その声に袁は聞き覚えがあった。驚懼の中にも、彼は咄嗟に思い当たり、叫んだ。「その声は、我が友、李徴ではないか?」袁は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少なかった李徴にとっては、最も親しい友であった。温和な袁の性格が、峻峭な李徴の性情と衝突しなかったためであろう。

叢の中からは、暫く返事がなかった。しのび泣きかと思われる微かな声が時々漏れるばかりである。ややあって、低い声が答えた。「如何にも自分はろうさいの李徴である」と。袁は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懐かしげに久闊を叙した。そして、何故叢から出て来ないのかと問うた。李徴の声が答えて言う。「自分は今や異類の身となっている。どうして、おめおめと故人の前にあさましい姿をさらせようか。かつ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭の情を起させるに決まっている。しかし、今、図らずも故人に遇うことを得て、愧赧の念をも忘れるほどに懐かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜悪な今の外形を厭わず、かつて君の友李徴であったこの自分と話を交してくれないだろうか。」

後で考えれば不思議だったが、その時、袁はこの超自然の怪異を実に素直に受け入れ、少しも怪しむことはなかった。彼は部下に命じて行列の進行を止め、自分は叢の傍に立って、見えざる声と対談した。都の噂、旧友の消息、袁の現在の地位、それに対する李徴の祝辞。青年時代に親しかった者同士の、あの隔てのない語調で、それらが語られた後、袁は李徴がどうして今の身となるに至ったかを尋ねた。草中の声は次のように語った。

今から一年ほど前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊まった夜のこと、一睡してからふと目を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、その声は闇の中から頻繁に自分を招いていた。覚えず自分は声を追いかけて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、いつの間にか道は山林に入り、知らぬ間に自分は左右の手で地を掴んで走っていた。何か身体の中に力が満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気が付くと、手先や肘のあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなった頃、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。自分は初めは目を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったからだ。どうしても夢でないと悟らねばならなかったとき、自分は茫然とした。そうして恐れた。全く、どんな事でも起こり得るのだと思い、深く恐れた。しかし、何故こんな事になったのだろう。分からない。全く何事も我々には判らない。理由も分からずに押し付けられたものを大人しく受け取り、理由も分からずに生きて行くのが、我々生きものの定めだ。自分はすぐに死を思った。

しかし、その時、眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ましたとき、自分の口は兎の血にまみれ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来、今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る。そういう時には、かつての日と同じく、人語も操れれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書の章句を誦することも出来る。その人間の心で、虎としての己の残虐な行いのあとを見、己の運命を振り返る時が、最も情なく、恐ろしく、憤りを感じる。しかし、その人間に戻る数時間も、日を経るごとに次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ふと気が付いて見たら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐ろしいことだ。今少し経てば、己の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えてしまうだろう。

ちょうど、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するように。そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても故人とも認めることなく、君を裂き喰らって何の悔も感じないだろう。一体、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったのだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れてしまい、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか?いや、そんな事はどうでもいい。己の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、恐らく、その方が、己は幸せになれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐ろしく感じているのだ。ああ、全く、どんなに恐ろしく、哀しく、切なく思っているだろう!己が人間だった記憶がなくなることを。この気持ちは誰にも分からない。誰にも分からない。己と同じ身の上になった者でなければ。ところで、そうだ。己がすっかり人間でなくなってしまう前に、一つ頼んでおきたいことがある。

袁はじめ一行は、息をのんで、叢中の声の語る不思議に聞き入っていた。声は続けて言う。

他でもない。自分は元来詩人として名を成すつもりでいた。しかも、業未だ成らざるに、この運命に立ち至った。かつて作った詩数百篇、固もとより、まだ世に行われていない。遺稿の所在も最早判らなくなっていよう。ところで、その中、今も尚記誦せるものが数十ある。これを我がために伝録して戴きたいのだ。何も、これによって一人前の詩人面をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。

袁は部下に命じ、筆を執って叢中の声に従って書き取らせた。李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡さを思わせるものばかりである。しかし、袁は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属することは疑いない。しかし、このままでは第一流の作品となるには、何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがあるのではないか、と。

旧詩を吐き終わった李徴の声は、突然調子を変え、自らを嘲るかのように言った。


羞恥なことだが、今でも、こんな情けない身となり果てた今でも、私は、私の詩集がちょうあんの風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。嗤ってくれ。詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。(袁は昔の青年李徴の自嘲癖を思い出しながら、哀しく聞いていた。)そうだ。お笑い草のついでに、今の思いを即席の詩に述べてみようか。この虎の中に、かつての李徴が生きている証として。

袁はまた下吏に命じてこれを書き取らせた。その詩に言う。

※本文に登場する詩は漢文として表記されています。すこし中断して漢文を少しばかり説明します。

偶因狂疾成殊類
中国語読み、 おう いん くゎん しつ せい しゅ るい
漢文読み(日本語読み)、たまたま きょうしつ によりて しゅるい と なる
意味、 たまたま狂気の病にかかり、異常な存在となった。

災患相仍不可逃
中国語読み、 さい かん しょう じょう ふ か とう
漢文読み(日本語読み)、さいかん あいよって のがるべからず
意味、 災難が重なり、逃れることができない。

今日爪牙誰敢敵
中国語読み、 きん じつ そう が すい かん てき
漢文読み(日本語読み)、 こんじつ そうが たれか あえて てきせん
意味、 今日、誰が爪や牙に立ち向かうことができるだろうか。

当時声跡共相高
中国語読み、 とう じ せい せき きょう しょう こう
漢文読み(日本語読み)、 とうじ せいせき ともに あいこうす
意味、 当時は声望も共に高かった。

我為異物蓬茅下
中国語読み、が い い ぶつ ほう ぼう か
漢文読み(日本語読み)、 われ いぶつ となり ほうぼう の もとにあり
意味、 私は異物となり、荒れ果てた草むらの下にいる。

君已乗軺気勢豪
中国語読み、くん い じょう よう き せい ごう
漢文読み(日本語読み)、 きみ すでに よう に のり きせい ごうなり
意味、 君はすでに車に乗り、勢いが盛んである。

此夕渓山対明月
中国語読み、 し せき けい さん たい めい げつ
漢文読み(日本語読み)、 この ゆうべ けいざん めいげつ に むかい
意味、 この夕べ、渓谷と山は明るい月に向かい合っている。

不成長嘯但成嘷
中国語読み、ふ せい ちょう しょう たん せい ごう
漢文読み(日本語読み)、 ちょうしょう を なさず ただ ほゆる を なす
意味、長い嘯きを成さず、ただ吠えるだけである。
このように、中国語読みと漢文読み(日本語読み)は異なります。

この詩は、主人公の李徴が虎に変わってしまった自分の運命を嘆く内容です。
本文に戻ります。


時に、残月が光冷ややかに、白露は地に滋しげく、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。人々は最早、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄倖を嘆じた。李徴の声は再び続ける。

何故こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えてみれば、思い当たることが全然ないでもない。人間であった時、私は努めて人との交わりを避けた。人々は私を倨傲だ、尊大だと言った。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、かつての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは言わない。しかし、それは臆病な自尊心と言うべきものであった。私は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨することをしなかった。かといって、また、私は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。自分の珠に非ざることを恐れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、また、自分の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。

私は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚によって益々己の内なる臆病な自尊心を膨らませる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。私の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが私を損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、私の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。今思えば、全く、私は自分が持っていた僅かばかりの才能を空費してしまった訳だ。人生は何事も為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄ろうしながら、事実は才能の不足を暴露するかもしれないという卑怯な危惧と、刻苦を厭い怠惰が私の全てだったのだ。私よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。

虎となり果てた今、私はようやくそれに気が付いた。それを思うと、私は今も胸を灼かれるような悔いを感じる。私には最早人間としての生活は出来ない。たとえ、今、私が頭の中でどんな優れた詩を作ったにしても、どういう手段で発表できるだろう。まして、私の頭は日ごとに虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。私の空費された過去は? 私は堪らなくなる。そういう時、私は向こうの山の頂の巌に上り、空谷に向かって吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。私は昨夕も、あそこで月に向かって咆えた。誰かにこの苦しみが分かって貰えないかと。しかし、獣たちは私の声を聞いて、ただ恐れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、吼えているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人私の気持ちを分かってくれる者はいない。ちょうど、人間だった頃、私の傷つき易い内心を誰も理解してくれなかったように。私の毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。

漸く四辺あたりの暗さが薄らいで来た。木の間を伝って、何処からか、暁角が哀しげに響き始めた。


最早、別れを告げねばならぬ。酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と李徴の声が言った。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼らはまだ略かくりゃくにいる。もちろん、己の運命に就いては知る筈はない。君が南から帰ったら、己は既に死んだと彼らに告げてもらえないだろうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願いだが、彼らの孤弱を憐れんで、今後とも道塗どうとに飢凍することのないように計らっていただけるなら、自分にとって恩恵、これに過ぎたるはない。

言い終わって、叢中から慟哭の声が聞こえた。袁もまた涙を浮かべ、李徴の意に沿いたい旨を答えた。李徴の声はしかし、忽ち先刻の自嘲的な調子に戻って言った。

本当は、先にこの事の方をお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。

そうして、付け加えて言うことに、袁が嶺南からの帰途には決してこの道を通らないで欲しい、その時には自分が酔っていて故人ともを認めずに襲いかかるかもしれないから。また、今別れてから前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、こちらを振り返って見てほしい。自分は今の姿をもう一度お目にかけよう。誇ろうとしているわけではない。我が醜悪な姿を示して、再びここを過ぎて自分に会おうとの気持ちを君に起させないためであると。

袁は叢に向かって、懇ろに別れの言葉を述べ、馬に上った。叢の中からは、また堪え得ざるが如き悲泣の声が洩れた。袁も幾度か叢を振り返りながら、涙の中に出発した。

一行が丘の上についた時、彼らは言われた通りに振り返って、先程の林間の草地を眺めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼らは見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、また元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。

ではまた次回お会いしましょう。